レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2013/03/22 10:13
- 更新日時
- 2013/06/22 17:22
- 管理番号
- 高岡20130005
- 質問
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解決
高岡城の構造を知りたい。
- 回答
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高岡城の図・記録類はなく、利長在城中における高岡城の規模・構造の詳細は不明。高岡町奉行小堀金五右衛門が、天保の頃作成した『高岡城之図』で規模などの大要が察せられる。
『高岡古城志』によると、高岡城に天守閣、隅櫓、白壁の塀があったかどうか不明瞭である。『高岡御城景台之絵図』では天守閣も、隅櫓もなかったらしい書き振りである。『伊東氏旧記』によれば、これらの建物があったように考えられる。『前田家雑録』では、利長入城のときはなかったが、その後、塀櫓を造ったという。塀のことは築城工事中の利長の書状中にあるので、建てられたことは疑いなく、そのほか、城戸・番所・鷹部屋・馬屋なども書中に見える。天守閣についての資料は持たない。居館は、書院の廊下畳の菰を近村の百姓に賦課した文書がある。茶室は大工を古田綾部の許に遣わして、寸法まで写し取らせ、その通りに造らせたことが今枝直方の夜話に記されている。高岡城の殿閣は京都聚楽第の遺構だという説があるが根拠はない。『三州志』には「国祖ノ太閤ヨリ賜ハリシ伏見秀次君遺館ノ良材ヲ以テ殿閣ヲ造ラセラレテ落成ス」と書いてある。古記録によればこの遺館は「伏見の聚楽第」と俗称されていたようなので、京都聚楽第説はこれの訛伝であろう。高岡城殿閣は伏見から移転したものかといえば、かならずしも然りとはいえない。『三壷聞書』では慶長10年(1605)、利常がこれを江戸に建てたことを伝えている。『三州志』で「伏見の遺館は江戸邸に引移し建つる」と書かれ、『瑞龍公世家』には「公又別に旅館を高岡に建つ。館中の障壁等盡く馬を描く。是れ秀吉、高徳会に賜ふ所の伏見の殿営を移せし者に係れり」と書かれている。石垣は天明頃の古図と思われる高岡町図を見ると、城址に石垣の高く築かれた様を描いている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『高岡城之図』・『高岡古城志』・『高岡御城景台之絵図』・『伊東氏旧記』・『前田家雑録』・『三州志』・『三壷聞書』・『瑞龍公世家』
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000129484