レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年08月13日
- 登録日時
- 2016/08/22 14:47
- 更新日時
- 2017/07/17 15:17
- 管理番号
- 長野市立長野-16-012
- 質問
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未解決
旧信濃国分寺の仏塔の建立と廃滅年を探している。出来たら当時の高さなども知りたい。
(何重塔であるかまではわからない)
- 回答
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塔自体の建立と廃滅は不明。
「国分寺建立の詔」には、僧寺と尼寺を建て、寺と合わせて七重塔一基を造立するようにとある。
旧信濃国分寺の建立と廃滅については回答プロセスのとおり、さまざまな推測の記述があったが、
塔についての記述は「天平十九年の詔以後、天平勝宝八歳(七五八)に使者を遣わして国分寺に安置する丈六仏の造立を急がせ、聖武天皇の一周忌にあたる翌年五月までにつくり終えるように命じ、仏像やそれを安置する殿舎を作り終えた国は、塔も完成しておくようにといっている」という記述があるのみだった。
高さ等に関しては不明であるが、『信濃国分寺 本編』では、発掘調査時の塔の広さの規模の推定値が書かれていた。
「基壇13.2メートル(約43.6尺)四方とすることも穏当のようである。また四天柱礎(塔の中心柱を囲む四本の柱)の柱間3メートル(約10尺)と考えることも適当であり、側柱礎は、中央間が広く3メートル、脇間2.4メートル(約8尺)で、7.8メートル(約26尺)四方とすることが穏当であり、側柱礎から約2.7メートル(約9尺)で外縁に達するものとみたい」
- 回答プロセス
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寺自体の資料からあたっていくことにする。
『長野県史 通史編 第一巻』p543より。
天武天皇十四年の時代に政府が国家のために礼拝供養することを命じ、その後の大宝二年(七〇二)に諸国に大師を置き仏教による教化に力を入れた。これは仏法による国家の安泰をはかるためである。
天平十三年(七四一)正月、諸国のために国分寺六仏料が用意され、さらに同年三月、「国分寺建立の詔」が発布された。
①僧寺と尼寺を建て、その名前は「金光明四天王護国之寺」「法華滅罪之寺」とする。
②それぞれの寺と合わせて七重塔一基を造立し、金光明最勝王経・妙法蓮華経十巻を写しそなえさせること。
③寺には僧二十人、尼十人を勤めさせること。
しかし、詔の事例を実行するには莫大な経費と労働力を要するために建立はなかなか進まないところが多かった。天平勝宝八年(七五六)に聖武天皇が逝去した。そこで政府は、聖武天皇一周忌までには必ず仏殿・仏像を完成するように厳命した。
「しかし、天平宝字末年ごろから、造立について督促の記事が史書になくなるのをみると、おそらく奈良時代末期の七七〇年ごろには、大部分の国々で国分二寺は完成していたものと想像される。」とあり。
信濃国分寺の創建時と廃滅時についてもp554-555にて触れている。
『長野市誌 第二巻』p404ではこのことにもう少し触れた記載がある。
これまで国分寺の創建に使われた瓦は、東大寺と同じ型でつくられた同范の瓦であるとされ、時期は天平十七年(七四五)から天平勝宝年中(七四九~七五七)に推定され、この時期に信濃国分寺が造営を始めたと理解されてきたが、まったく同范であるわけではないと指摘があり、その本格的な着工は天平十九年の造営督促よりも遅れていたらしい、という趣旨の記述あり。
また、瓦の生産地が坂城町の土井の入窯跡であることが判明しており、このことから天平十九年の詔にもとづき、埴科郡郡司らが積極的に国分寺の造営に協力し、本格化させたと推測することも出来る、との記述がある。
同資料p403には、天平十九年の詔以後、天平勝宝八歳(七五八)に使者を遣わして国分寺に安置する丈六仏の造立を急がせ、聖武天皇の一周忌にあたる翌年五月までにつくり終えるように命じ、仏像やそれを安置する殿舎を作り終えた国は、塔も完成しておくようにといっている、という記述がある。
廃滅についても同時にあたる。
国分寺自体の喪失原因となった記述は、平将門の千曲川付近での平貞盛との戦いがある。
平将門の千曲川国分寺の戦いについては、『長野県史 通史編 第一巻』p708からの項にも記載がある。
『信濃史料 第四巻』p379、380には将門記の部分がある。
p380訓読より。「貞盛追ひ停めて之を蹂躙するに如かずと。啻百余騎の兵を率い、火急に追ひ征つ。二月廿九日を以て、信濃國小縣郡國分寺の辺に追著き、便ち千阿川を帯して彼の此合戦するの間、勝負あることなし。」
これらの記述では国分寺自体の焼失は分かるがその他仏塔等の焼失のことまでは分からない。
『信濃国分寺 本編』p70で、塔跡の石塊群や平らかな円い石を考慮に入れた上での塔の規模の推定値が記されている。
「基壇13.2メートル(約43.6尺)四方とすることも穏当のようである。また四天柱礎(塔の中心柱を囲む四本の柱)の柱間3メートル(約10尺)と考えることも適当であり、側柱礎は、中央間が広く3メートル、脇間2.4メートル(約8尺)で、7.8メートル(約26尺)四方とすることが穏当であり、側柱礎から約2.7メートル(約9尺)で外縁に達するものとみたい」
他に分かった事として、
『角川日本地名大辞典20 長野県』(角川書店 1990)p475より国分寺の項があり。
現在地の国分寺に関する事が主であったが、「寺伝による国分寺修営の時期などから、現在地への移転は平安期とされる。」とあった。
『日本歴史大系 20』(平凡社 1979)p261にもおよそ同じように寺の説明が書かれている。
また『上田市史 下』(信濃毎日新聞社 1974)p1136には、社寺の御免勧化(幕府が寺社奉行連印の勧化状を寺社に与えて許可する方式)に関する国分寺の事項があるが、「延享三年十月国分寺塔破損二付~」とあるため、これは現国分寺の事と思われる。
<他、信濃国分寺に関しての資料>
『青木村誌 歴史編 上』(青木村 1994)<N221ア1>
p109(信濃国府と国分寺)
『上田市誌 歴史編 3』(上田市 2000)<N221ウ6>
「東海道と信濃国分寺」
『上田小県誌 第一巻』(小県上田教育会 1980)<N221ウ>
p113 第七章信濃国分寺の創建
これ以上は見つからなかった為、以上をもって案内とした。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『長野県史 通史編 第一巻』 長野県 長野県史刊行会 1989 <N209ナ1> (p543-555 信濃国分寺 p708 東国・京と信濃(承平八年の戦いに至る経緯も書かれている p554-555(信濃国分寺の創建時と廃滅時)、p576(保科清水寺)、p710(平将門が信濃国分寺にて平貞盛と信濃国分寺付近で戦った))
- 『長野市誌 第二巻』長野市誌編さん委員会/編集 長野市 2000,01 <N213ナ12> (p401~(第三章第三節ニ:国分寺の造営))
- 『信濃史料 第四巻 自 安貞元年3月-至 文保元年10月』 信濃史料刊行会/編 信濃史料刊行会 1969 <208シ> (p379,380 天慶元年二月「廿九日、平将門、同貞盛ヲ追ヒテ~」)
- 『信濃国分寺 本編』 上田市教育委員会/編 吉川弘文館 1974 <N221シ> (p69 第七節 塔跡)
- キーワード
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- 旧信濃国分寺
- 信濃国分寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000196268