レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 1997/07/25
- 登録日時
- 2011/02/26 02:00
- 更新日時
- 2018/02/17 15:03
- 管理番号
- 長野市立長野-97-012
- 質問
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解決
中野塾のあった場所と開校年が知りたい。
- 回答
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権堂町に開校し、元善町法然堂町など四度移転して東町武井小路に定着
明治19年に開校
- 回答プロセス
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『信州近代の教師群像』p147には
「長野市東町の武井小路に、中野塾があった。昭和四年三月に閉塾するまで、四三年間にわたって、中等予備門の教育をした。善光寺境内にある頌徳碑 昭和6・11建 丸山弁三郎撰文 には、ここに教えをうけた者が七千余人あったと記されている。塾主は中野保 一八五三-一九三七 であった。 明治十九年に権藤町で開塾してから、元善町法然堂町など四たび移転して、武井神社の近くに、元警察官教習所の建物の無償下付をうけて塾舎とした。その間、明治、大正、昭和をとおして、塾主は一貫して中野保で、閉塾するとき七五歳に達していた。」
とある。
『信州の教師像』p233には長野県近代教育史年表があり、p238には
「明治19(一八八六) 九月 中野保が長野町に中野塾を開く(昭三廃)」
とある。
『長野県教育史 第1巻』p796には
「かつて教場監事であった中野保は、この五月に師範学校を去って上田の中学へ転じた。のち上水内中学校に移り、明治一九年長野町権堂に中野塾を開き、昭和四年閉塾、同一二年八月死去、八六歳」
とある。
『長野県教育史 第2巻』p570-571には
「中野塾 中野保 長野市東町 師範学校・中学校志願者および小学校教員検定受験者の教育」
とあり、
「中野塾は、教員養成予備門として、明治一九年に長野県尋常師範学校が発足、長野に移転した年に設立され、「師範学校規程」の改正(大正一四)により、受験資格の高等小学校三年代行の役割が解消した昭和四年に閉塾している。」
など詳細が記載されている。
『長野県歴史人物大事典』p515 「中野保」の項には
「中野は病気もあって退職し、尋常師範学校が松本から長野に移転してくるので、その予備門として中野塾を八六年(明治一九)権堂町に開校した。その後元善町法然堂町など四度移転して東町武井小路に定着する。一九二九年(昭和四)七五歳で閉塾するまで七〇〇〇人余りの塾生を教え、塾生の彰徳碑が善光寺境内に建立されている。」
- 事前調査事項
- NDC
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- 教育 (370)
- 参考資料
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- 『信州近代の教師群像』中村 一雄/著 東京法令出版 1992 <N372ナ>
- 『信州の教師像』信濃毎日新聞社/編 信濃毎日新聞社 1970.10 <N372シ>
- 『長野県教育史 第1巻』長野県教育史刊行会/編集 長野県教育史刊行会 1978.03 <N372ナ1>
- 『長野県教育史 第2巻』長野県教育史刊行会/編集 長野県教育史刊行会 1981.03 <N372ナ2>
- 『長野県歴史人物大事典』赤羽 篤/〔ほか〕編 郷土出版社 1989.07 <N283ナ>
- キーワード
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- 中野保
- 長野県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000080856