レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/02/19
- 登録日時
- 2020/03/03 00:30
- 更新日時
- 2021/04/13 15:53
- 管理番号
- 6001008642
- 質問
-
解決
日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語」のストーリーに「綿花産業の富が育んだ天領倉敷」という項があります。その説明文中に「江戸後期の紀行文にも『見渡す所の田地に,過半は綿を植えたり』と記されるなど,付近の干拓地一面に綿畑が広がっていたことがうかがえる」とあるのですが、出典がわかりません。ここでいう「江戸後期の紀行文」の書名・著者名をお調べいただけたら幸いです。
- 回答
-
『吉備文庫 復刻版』全7輯 等をお調べしましたが、該当する文献が見当たりませんでした。
そこで日本遺産への申請書類を作成した倉敷市文化財保護課に、引用元の照会を行ったところ、吉田重房『筑紫紀行』文化3年(1806年)出版 が出典であるとの回答を得ました。
『筑紫紀行』はあいにく当館に所蔵がございませんが、『真備町史』1979年出版 p493~494で、該当の部分を確認していただくことができます。また『筑紫紀行』は国立国会図書館デジタルコレクションで、全文ご覧いただくことが可能です。
「五日空くもる。卯の刻に出立(矢掛を)半里行けば東市場(現在家の多くある三谷小学校のあたり)人家二十軒ばかり、茶屋なし。半里行けば東みなべ、人家十四五軒、藤の棚のある茶屋あり(藤の棚は現在地名であるが
、この時は茶屋に藤の棚が実在していたようである。)一里ばかり行けば尾崎村(妹のあたりの記事なし)人家二十軒ばかり、茶屋あり、此のあたり平道にて行きよし。(この茶屋は恐らく今の畑岡=バス停宮の鼻の少し東か)見渡す所の田地に過半は棉を植えたり。五六町行けば左の方の山の手に吉備大臣の廟所あり。」
と『真備町史』にはあります。
担当課によると、山陽道の真備のことを書いているので、実は倉敷の平野部の干拓地のことではないのだが、この周辺で棉を植えていたという記述が他に見つからなかったので引用したとのことです。
それとは別に、『菅茶山』西原千代/著 白帝社 に、備後の農村に広がる綿畑風景を詠んだ菅茶山の漢詩が多く掲載されています。 ※ 菅茶山(1748年生~1827年没)
(p100「赤阪」、p511「秋日雑咏(十)」~p525「秋日雑咏(九)」など、農村の生活を詠う詩)
『和漢三才図会』正徳2年(1712年) によると、正徳年間(1711年~1715年)日本全国で綿の大産地として、「摂津・備後の産は最上、播磨・丹州・備中は並みによし、紀州はこれに次ぎ、泉州は下…」と記録され、『玉島むかし昔物語』正編 渡邊義明/著 によると、玉島港問屋の取り扱い品目でも常に「綿」が首位を占めていたようです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
・デジタル岡山大百科のうち、古川古松軒『西遊雑記』全7巻・『吉備之志多道 賀陽郡之部』
・国立国会図書館デジタルコレクションのうち、橘南谿『東西遊記・北窓瑣談』
(どちらも、精読したというわけではありません)
- NDC
- 参考資料
-
- 真備町史真備町史編纂委員会/編真備町 (p493~494)
- 玉島むかし昔物語 正編渡邊 義明/著 (p106~107)
- 菅茶山西原千代/著白帝社 (p100、p511~525)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000275061