レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年01月05日
- 登録日時
- 2019/12/25 16:46
- 更新日時
- 2020/01/18 10:44
- 管理番号
- 兵尼2019-60
- 質問
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解決
豊臣秀吉が天正10年の山崎合戦の前、尼崎に来るまでのルートが知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介しました。
◆郷土資料
(1)『広徳寺を訪ねて』春木 一夫/著(1977) p.18-20「秀吉と村重」
(2)『新阪神史話』東 薫/著 阪神サンケイ新聞社(1980) p.14-16「秀吉の由緒寺」
(3)『尼崎市史 第2巻』岡本 静心/著(1970)p.19-22
(4)『むかしと今と 阪神間の民話散歩』読売新聞阪神支局/編 阪神読売会(1987)
(5)『摂北 第38号/第44号』 兵庫県立伊丹高等学校社会化研究(1972/1976)
(6)『わが町あまがさき 第20号』 尼崎市広報課
(7)『市報あまがさき No.1527』 尼崎市広報課(2010)
◆郷土以外の秀吉に関する資料・事典
(8)『豊臣秀吉事典 コンパクト版』杉山 博/(他)編 新人物往来社(2007)p.244-248「中国大返し」
(9)『秀吉戦記』谷口 克広/著 集英社(1996)
(10)『日本の合戦 6 豊臣秀吉』新人物往来社(1978)
◆資料(8)に秀吉が尼崎へ至るまでの行程が詳しく記述されており、その内容は以下の通りです。
1. 1582(天正10)年6月3日、備中高松城(岡山県)にいた秀吉の元に、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって殺害された知らせが届く
2. 6月4日、高松城主清水宗治を切腹させて毛利軍と講和
3. 6月5日、全軍を備中高松の戦線から撤退し、姫路へと帰陣の途につく
この日の道のり(岡山県内)は、
岡山から大川を渡る→沼城にて小休止→吉井川を福岡へ渡る→長船・伊部→備前片上津にて一泊
4. 6月6日、片上津を出港し早船で播磨赤穂岬へ到着
5. 6月7日未明、赤穂岬から馬で出城の姫路へ帰陣
6. 6月9日、姫路城を出立し尼崎へ向かう
7. 6月11日、尼崎に到着
この後、6月13日に山崎の合戦が起こり、秀吉の勝利が決まる
- 回答プロセス
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尼崎市には秀吉の「みそすり坊主」(広徳寺)と「雉が坂」などの伝説がある。
それらの郷土資料に山崎合戦の前後の事も少し記載があるため、そちらを紹介。
また、秀吉の戦いに関する資料・事典なども提供した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289)
- 参考資料
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谷口克広 著 , 谷口, 克広, 1943-. 秀吉戦記 : 天下取りの軌跡. 集英社, 1996.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002483989-00 , ISBN 4087811271 -
杉山博, 渡辺武, 二木謙一, 小和田哲男 編 , 杉山, 博, 1918-1988 , 渡辺, 武, 1937- , 二木, 謙一, 1940-. 豊臣秀吉事典 コンパクト版. 新人物往来社, 2007.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008571178-00 , ISBN 9784404034687 -
桑田忠親 編集 , 桑田, 忠親, 1902-1987. 日本の合戦 6 (豊臣秀吉). 新人物往来社, 1978.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001372177-00
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谷口克広 著 , 谷口, 克広, 1943-. 秀吉戦記 : 天下取りの軌跡. 集英社, 1996.
- キーワード
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- 豊臣秀吉
- 尼崎
- ルート
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271473