レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年11月03日
- 登録日時
- 2021/11/03 11:41
- 更新日時
- 2022/08/05 11:31
- 管理番号
- 郷土-990
- 質問
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解決
阿部正恒(あべまさたけ)が藩主になった経緯を知りたい
- 回答
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『福山藩幕末維新伝』より要約
新藩主の擁立について,江戸の福山藩邸と国元の福山藩では,考え方が異なっていた。
江戸の福山藩邸では,佐幕論が強かったため,阿部正学(まさたか)を擁立しようとした。正学は,福山藩阿部家二代伊勢守正福(まさよし)の弟百之助正容の六代目裔孫で,家老職内藤角右衛門とも縁続きであるため,血統の近さから言えば適任であった。
福山藩の幕臣たちは,「時節柄勤王の大藩と婚姻関係を結ぶのが,今後の政局の推移から見て福山藩に有利である。隣の芸州藩から養嗣子を迎えるべきで,若し芸州藩が世論をかえりみてこれをしぶるならば,直ちに交渉を長州藩に委ねよう」というのである。これは福山藩の儒者や,その影響を強く受けた重臣たちの意見である。
芸州藩に交渉したところ,芸州藩は支藩の吉田侯浅野近江守を候補者として選んだ。福山藩では急遽その縁談を取り決め,結納式を執り行おうとしたが,どうしたわけか中止となった。今度は支藩三原から三原侯浅野元次郎正恒が新藩主として福山へ来ることとなり,安芸広島藩との婚約が成立した。正恒は後の安芸広島藩主浅野長勲(ながこと)の弟である。
1868年(慶応4年)5月20日,正恒は福山城に入城。福山藩は5月27日付をもって阿部家の家督を正恒へ譲るよう朝廷に願い出て,28日にその允許を得,6月2日をもって正恒は福山藩の新藩主となった。
正恒の奥方には,先々代阿部伊勢守正弘の六女寿子が,越前福井藩主松平茂昭(もちあき)の養女となって配された。
江戸の福山藩邸の藩士たちから擁立された正学は,1868年(慶応4年)5月末,品川から汽船に乗り6月4日,5日頃鞆港に着いた。福山城に入ったが,既に福山詰藩士たちの働きで三原から新藩主が迎えられた後であるため,どうすることもできなかった。
正学はその後も福山に居住した。後年,推されて福山町長となった後,東京に帰り,1909年(明治42年)2月12日に亡くなった。
- 回答プロセス
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阿部家について書かれた資料をあたる。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 森本繁. 『福山藩幕末維新史』. 内外印刷, 1982年. p. 194~196 (当館請求記号 K215モ, 当館資料番号 203803325)
- 『日本の肖像』第五巻. 毎日新聞社, 1989年. p. 44(家系図) (当館請求記号 H288ニ5, 当館資料番号 200393643)
- 村上正名. 『今昔物語福山の歴史』下巻. 歴史図書社, 1978年. p. 9 (当館請求記号 K211ム2, 当館資料番号 204681423)
- 鷹の羽会. 『鷹』第八集. 1976年. p. 23 (当館請求記号 K215タ8, 当館資料番号 201541117)
- 福山西尋常高等小学校. 『郷土物語』. 1933年. p. 204 (当館請求記号 H211キ, 当館資料番号 200392181)
- キーワード
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- 阿部正恒
- 阿部家
- 浅野元次郎正恒
- 阿部正学
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000307076