レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/05/20
- 登録日時
- 2018/03/30 00:30
- 更新日時
- 2019/03/14 00:30
- 管理番号
- 町田-177
- 質問
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解決
JR町田駅にかつてあった、昭和天皇用のホーム(お召しホーム)について知りたい。
相模原病院の行幸碑に昭和13年とあるため、昭和13年には確実に存在した。
- 回答
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M05-W04『横浜線物語 1〜58』 昭和53年10月5日 横浜線物語 9 お召し列車
”原町田駅には天皇が座間士官学校の卒業式に出席するための「宮廷ホーム」が作られた。もっとも、使われたのは昭和17年の1回きり。戦時中はこのホームにお召し列車が”疎開”、シートがかぶされ置かれてあったという。白いコンクリート造りの貴賓室は戦後すぐ壊され、宮廷ホームも昨年取り払われた。”
M10-K8『まちだと戦争』 p.35-36 「行幸道路と陸軍士官学校」
原町田駅(現、JR町田駅)の南側に天皇専用ホームの御召ホームがつくられた。天皇陛下が陸軍士官学校の卒業式に出席するための行幸の際に使用した。今では市営原町田駐車場になっている。簡単な図あり。
M00-D2『東京風土図』 p.311
原町田駅の南側に・・・陛下の下車専用駅もあったが、現在は取りこわされて、跡形もない。
M00-D2『駅名で読む江戸・東京 続』 p.55
宮廷ホーム(皇族専用乗降場)の記述あり。戦前戦中に原町田(町田市)含め数駅あった。
M10-G0『町田市が変わった』 p.44
戦前の行幸に使用された旧お召しホームの解放と自由道路の設置。旧お召しホームに広場機能をもたせ、ターミナルプラザと跨線橋で結び、原町田一丁目および相模原市側と四丁目の交流を確保した。(その後、話し合いにより、広場機能ではなく、二五〇台収容の市営立体駐車場に変更。)
M10-C1『町田郷土誌』 p.360
天皇行幸のため原町田駅に御召しホームが特設され、南側駅前広場(現町田市営立体駐車場)から・・・”行幸道路”と呼ばれた。
M10-C7『写真アルバム 町田市の昭和』 p.139
駅舎の八王子側にはお召しホームがあった
M10-C1『町田の歴史をたどる』 p.139 「ハマ線にお召し列車が走る」
お召しホームの名前はないが、新しい特別ホームも作られとの記述あり。
M10-C7『三橋国民 近世町田の風景と文』 p.25 国鉄原町田駅にあった「お召しホーム」
イラストと文章あり。
M10-C7『平和への祈りをこめて 』 p.6
昭和十九年から、士官学校の卒業式がくり上げで卒業で年二回になると・・・突貫工事で原町田一丁目に立派な宮廷室とホームが造られ・・・二回使用されただけで終戦になってしまいました。
戦後は二度と使用されることがないと思われていた宮廷室とお召しホームが米軍に接収
288.4-シ『昭和天皇御召列車全記録』
昭和12年~昭和19年にわたり、原町田を訪れたことがわかる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- まちだと戦争まちだ戦後50年プロジェクト/編東京都教職員組合町田支部 (p.35-36)
- 東京風土図産経新聞社会部/編社会思想社 (p.311)
- 駅名で読む江戸・東京続大石学/著PHP研究所 (p.55)
- 町田市が変わった大下 勝正/著朝日新聞社 (p.44)
- 町田郷土誌森山 兼光/著久美堂 (p.360)
- 町田の歴史をたどる2004年町田の歴史をたどる編集委員会/著町田市教育委員会 (p.139)
- 横浜線物語 1〜58毎日よこはま
- 昭和天皇御召列車全記録日本鉄道旅行地図帳編集部/編新潮社
- 写真アルバム 町田市の昭和いき出版
- 三橋国民 近世町田の風景と文三橋 洋介/編集・監修三橋 国民 (p.25)
- 平和への祈りをこめて町田市企画部企画調整課/編町田市 (p.16)
- キーワード
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- お召しホーム(オメシホーム)
- お召ホーム(オメシホーム)
- 御召ホーム(オメシホーム)
- 御召しホーム(オメシホーム)
- 宮廷ホーム(キュウテイホーム)
- 横浜線(ヨコハマセン)
- 原町田駅(ハラマチダエキ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000233804