レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年10月02日
- 登録日時
- 2019/10/02 20:04
- 更新日時
- 2019/11/14 10:12
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中ー郷土ー129
- 質問
-
解決
葵祭について,名前の由来を知りたい。
- 回答
-
“葵祭”は,上賀茂神社(賀茂別雷神社),下鴨神社(賀茂御祖神社)で毎年5月に行われる例祭“賀茂祭(かもさい)”の俗称です。【資料1・3・5】
“賀茂祭”の起源は奈良時代以前で,“葵祭”の他にも,単に“祭”と呼ばれたり,“北祭”,“ミアレ”とも呼ばれました。【資料2・6】
“葵祭”の呼び名の由来は,“賀茂祭”において葵が,桂の木の枝と共に神殿に供えられたり,社殿や祭の奉仕者の衣服,牛車の簾にも飾り付けられるなど,信仰を象徴する植物だった事から,と言われています。【資料6・7】
“賀茂祭”が文献に“葵祭”として登場するのは,寛永年間(1624~1644)ごろからです。【資料1・8・9】
慶長15年(1610),上賀茂神社から徳川家康へ葵を進上して以来,毎年将軍家へ葵をおさめる“葵使(あおいつかい・あおいのつかい)”が派遣されるようになります。“賀茂祭”は応仁の乱以降途絶えていましたが,元禄7年(1694)には徳川幕府の援助を得て,朝廷の祭りとして再興しました。葵を家紋とする徳川家との関係が深まった事で,“葵祭”と呼ばれるようになったとも考えられています。【資料1・3~5・8】
- 回答プロセス
-
●京都市図書館所蔵の葵祭に関する資料を確認・・・【資料1・2】
●【資料1】の参考文献を確認・・・【資料3・4】
●【資料4】の参考文献を確認・・・【資料5】
●当館所蔵の辞典を確認・・・【資料6~8】
●【資料8】の参考文献を確認・・・【資料9】
【資料9】「寛永二年四月十九日」 “かものあふひのまつりにて。”
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (291)
- 日本史 (210)
- 年中行事.祭礼 (386)
- 参考資料
-
- 【資料1】『京都を学ぶ 洛北編』(京都学研究会/編 ナカニシヤ出版 2016)p122~139“賀茂祭行列の再興 -葵と徳川綱吉-”
- 【資料2】『賀茂祭と臨時祭』(出雲路 通次郎/著 両賀茂社式年正遷宮奉祝委員会 1937)p1~2“賀茂祭 第一 名称”
- 【資料3】『創造する市民 2011冬号』(京都市生涯学習振興財団 2011)p10~19“葵使 -徳川将軍家と賀茂別雷神社-”
- 【資料4】『京都産業大学日本文化研究所紀要 第14号』(京都産業大学日本文化研究所 2009)p207~221“賀茂別雷神社「葵使」関係文書の翻刻と解説(下)”
- 【資料5】『まなびすと vol.4(2008冬1月~3月)号~vol.6(2008秋9月~12月)号』(京都市生涯学習総合センター[ほか] 2008)vol.5(2008春夏4月~8月)号p15~17“神聖なる葵 -京都の三大祭(2)-”
- 【資料6】『新編大言海』(大槻 文彦/著 冨山房 2001)p10“あおいかつら”“あおいまつり”,p454“かもまつり”
- 【資料7】『国史大辞典 3』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1983)p623“かものまつり 賀茂祭”
- 【資料8】『年中行事大辞典』(加藤 友康[ほか]/編 吉川弘文館 2009)p204~206“かものまつり 賀茂祭”
- 【資料9】『続群書類従 補遺3‐[9] お湯殿の上の日記』(塙 保己一/編纂 続群書類従完成会 1980)p502“寛永二年四月十九日”
- キーワード
-
- 葵祭
- 賀茂祭
- 徳川
- 葵使
- 京都三大祭
- 上賀茂神社
- 下鴨神社
- 賀茂社
- 葵桂
- 葵楓
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000262236