レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年05月29日
- 登録日時
- 2022/05/29 16:07
- 更新日時
- 2022/08/15 16:13
- 管理番号
- 名古屋市守-2022-001
- 質問
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未解決
名古屋市守山区瀬古は、輪中が区画整理されて現在のようになったそうだ。当時輪中だったところが現在のどこにあたるか知りたい。
- 回答
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矢田川と庄内川の間に北瀬古・南瀬古の2つの輪中があり、現在の瀬古小学校の西側に北瀬古輪中の堤防がありました。輪中全体の場所の特定には至りませんでした。
- 回答プロセス
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『守山区誌』(守山区制50周年記念事業実行委員会編集 守山区制50周年記念事業実行委員会 2013)p.95に、水害対策のため輪中が作られたが、明治から大正に向けての耕地整理によって消滅し、瀬古東三丁目にわずかな痕跡がある旨の記述がありました。同書資料編p.328の「春日井郡瀬古村絵図」(天保13年)では、川の流れが現在と異なっており、場所が特定できませんでした。
『わたしたちのまち瀬古』(名古屋市立瀬古小学校編集名古屋市立瀬古小学校 1987)p.49に、「天保古地図にみる輪中のあと」の図(前述の古地図と同じものと思われる)があり、「瀬古にも、北瀬古、南瀬古と二つの輪中がありました。北瀬古輪中の南北に続いた堤防の一部が、大正のころまで、学校の西に残っていたそうです。」とありました。
『守山を襲った過去の災害から学ぶ』(名古屋市守山区役所総務課庶務係 2017)にも、「瀬古村輪中」があったという記述があり、水害への自衛策として建てられた「水屋」が残っていることが書かれています。
『守山探検隊まちあるきマップ 9 瀬古西コース 約3.7km 』(守山探検隊実行委員会発行 2018)に、明治24年地形図による「除(よげ)跡」(尾張藩は小堤のことを徐とよんでいた)記載があり、現在の守西ポンプ場北側あたりが南限、瀬古小学校西側から北に庄内川までのびています。これが北輪中の場所かと思いますが、もととなった明治24年地形図の確認はできていません。「水屋」も3か所のうち、2つが「徐跡」の中に、もう1つは瀬古小学校の北側にあります。
当館の『明治二十一年名古屋近傍図 複製』(古地図史料出版 出版年不明)では、該当箇所が細かくわかりませんでした。
- 事前調査事項
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『守山区誌』に瀬古には輪中があったとの記述があった。
- NDC
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- 中部地方 (215 9版)
- 地理.地誌.紀行 (290)
- 参考資料
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守山区制50周年記念事業実行委員会 編 , 名古屋市. 守山区誌 : 区制施行五〇周年記念. [守山区制50周年記念事業実行委員会], 2013.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024368559-00 -
名古屋市立瀬古小学校/編集 , 名古屋市立瀬古小学校. わたしたちのまち瀬古. 名古屋市立瀬古小学校, 1987-11.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I109339632-00 -
守山を襲った過去の災害から学ぶ : 過去から続く災害との闘いから得た教訓を今に活かすための防災記録簿. 名古屋市守山区役所区政部総務課庶務係, 2017-03.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I110670919-00 -
守山探検隊まちあるきマップ. 名古屋市守山区役所区民生活部まちづくり推進室, 2006-07.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I110690322-00 -
明治二十一年名古屋近傍図. 古地図史料出版.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I111248812-00
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守山区制50周年記念事業実行委員会 編 , 名古屋市. 守山区誌 : 区制施行五〇周年記念. [守山区制50周年記念事業実行委員会], 2013.
- キーワード
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- 名古屋市守山区
- 輪中
- 愛知県‐地誌
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000316666