レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/02/19
- 登録日時
- 2021/03/17 00:30
- 更新日時
- 2021/03/17 00:30
- 管理番号
- 6001043273
- 質問
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解決
石山本願寺と織田信長の戦い(石山合戦)の際に、織田信長が本願寺を攻めるために築かせた天王寺城がどこにあったか書かれた資料はあるか。
- 回答
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次の資料に天王寺城の位置について記載がある。
■『大阪伝承地誌集成』(三善貞司/編著 清文堂出版 2008.5)
p.187「天王寺城」
「本願寺攻めのため、織田信長が原田直政に築かせた城砦。『摂津志』に月江寺(生玉寺町)付近と出るが、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端といわれる。(中略)佐久間信盛・正勝父子を城主にする。(中略)父子追放後天王寺城は破却、今は跡を留めるものはない。」
■『日本歴史地名大系 28‐[1] 大阪府の地名』(平凡社 1986.2)
p.681「天王寺城跡 現天王寺区伶人町・逢阪一丁目」
「織田信長が築かせた城。城跡については月光寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸・中ノ丸・南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。(中略)天王寺城には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、」天正八年八月中旬、佐久間父子は追放される、とある。そして、「佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。」とある。
上記資料で紹介されている「石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)」は以下の資料に掲載されている。
■『大坂城戦史 大坂の陣400年記念』(大阪城天守閣/編集 大阪城天守閣 2015.10)
解説に「本願寺と四天王寺の間がいくつもの島に分かれるなど、ここに描かれた地形は実際のそれとは程遠く、想像図に過ぎない」とある。(p.8)
また、石山合戦配陣図と「同内容の絵図」として「石山合戦織田方陣取図」もp.9に紹介されている。
[事例作成日:2021年2月19日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 10版)
- 参考資料
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- 大阪伝承地誌集成 三善/貞司∥編著 清文堂出版 2008.5 (187)
- 日本歴史地名大系 28‐[1] 平凡社 1986.2 (681)
- 大坂城戦史 大阪城天守閣‖編集 大阪城天守閣 2015.10 (8)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪,地名・地域,図・絵
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000295311