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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000260150
提供館
(Library)
沖縄県立図書館 (2110045)管理番号
(Control number)
1003021
事例作成日
(Creation date)
20170914登録日時
(Registration date)
2019年08月14日 00時30分更新日時
(Last update)
2019年08月14日 15時10分
質問
(Question)
履物(草履、足袋、下駄、靴)の歴史を知りたい。
回答
(Answer)
1.
1400年代前半まで(第一尚氏)は、役人でも裸足だった。
しかし、国王の正装は革靴(底は白く塗った革を何枚も重ねて作られていました。)(資料①~③)。

2.
第二尚氏以降は、役人も、正装や儀式の際には革靴を履くようになる(資料 ①~③)。
庶民は裸足が一般的で、アダン葉の草鞋を履くこともありました。王族や高級役人は革靴またはイグサの草鞋を履いた。
草履を履いていた際、身分の高い人の前ではそれらを脱ぎ、敬意を表すという風習があったようである(資料②④)。

3.
16~17世紀には、足袋や下駄が日本から持ち込まれる(資料④)。
持ち込まれた時期については、参考資料によって異なる(資料②④⑤)。

4.
尚真王(1465-1526)の頃に制定された服制によって、着物、帯、履物に至るまで上下の区別を行なった(資料⑤)。
足袋は親方以上、士分以上に下駄・草履が許された。
階級による足袋、下駄、草履の種類については、資料④~⑦を参照。
階級によって、色や素材、鼻緒などについて、厳密に決められていた。
庶民は原則裸足で、特別のときのみアダン葉草履が許された。
一例として、庶民の場合に60歳を超えるとアダン葉草履を履けるようになった(資料⑥)。
また、身分制度だけではなく、正装と平服、男女によっても違いがあった (資料④~⑦)。

5.
18世紀頃から王城夜勤番の履く皮製の雨靴のあったことが知られているが、形状は不明とある(資料④)。

6.
上記のような身分制度は、明治12年の廃藩置県、明治14年の四民平等制によって撤廃された。
しかし、戦前までは、身分制度の意識が残っていたようである(資料⑤⑧)。

7.
明治初頭から、首里の一部の貴族の間で洋靴が履かれるようになりました(資料⑦)。
洋服が着られるようになってから、洋靴は県庁役人などの官吏や学校教師など の間で広がりましたが、一般庶民への普及は容易には進まなかった。

8.
明治・大正から昭和にかけてズックとよばれるゴム底の木綿靴が都市の学童や中 学生の間に広く用いられるようになった(資料⑦)。

9.
大正から昭和にかけて県外から表畳にゴム裏付の草履や麻裏付の草履が大量に移入され、士、平民を問わず上下の階級ともこれらの草履を使用した(資料⑦)。
また、労働者の間に底部を木綿の荒布でつくられた地下足袋が使用され、やがてゴム底の地下足袋へと変わっていった(資料⑦)。

10.
昭和に入ってからも、那覇のような都会でも裸足の人達は大勢いた。
その為、昭和16年1月1日、那覇での裸足を禁止する跣足取締規則が施行された(資料⑦⑨)。


【参考資料】

『誰も見たことのない琉球』(上里/隆史∥著、ボーダーインク、2008.6)
p30 「古琉球人の姿(2)」(p30-31)の項目で、p30「第一尚氏王朝期の官人。頭部左側にカタカシラを結い、日本刀を常時さしています。足はハダシ。」の記述がある。
p33 「古琉球人の姿(3)古琉球の正装・明朝の冠服」の項目で、「靴 靴底は革を何枚も重ねて厚くし、白色に塗る。」の記述がある。
p40 「古琉球の位階(ランク)」の項目の挿絵で、世の主(国王)と按司部(王族)は、靴を履いている。下司(按司部以外の官人)は草履、真人(庶民)はハダシ。


『琉球戦国列伝』(上里/隆史?著・監修、ボーダーインク、2012.3)
p36-39 「尚巴志(1372-1439年)」の佐敷按司時代の挿絵では草履、中山王時代の挿絵では靴を履いている。
また、「身分の低い兵士はハダシでした。」「靴 底は白く塗った革を何枚も重ねて作られています。」の記述がある。
p40-43 「護佐丸(1300年代?~1458年)」の青年時代の挿絵ではハダシ、中城按司時代は足袋を履いている。
また、「古琉球の人は、ハダシが一般的でした。高温多湿の沖縄では靴をはくとムレてしまいます。」「足袋 暑い沖縄でも、身分の高い者は儀式や正装では履いたようです。」の記述がある。
p68-71 「金丸(1415年~1476年)」の項目で、「ハダシ 草履やワラジもありましたが、身分の高い人の前ではそれらを脱ぎ、敬意を表すという風習があったようです。」の記述がある。
p88-89 「赤犬子(1400年代後半?~1500年代)」の項目で、「草鞋 庶民はアダン葉で、高い身分だと畳の材料となるイグサなどで作りました。」の記述がある。


『マンガ沖縄・琉球の歴史』(上里/隆史?著、河出書房新社、2016.8)
p57 「はだし 古琉球ではわりと一般的だったらしい」の記述がある。
p59 「平民男女の礼服」のイラストで、「アダン葉のぞうり」の記述がある。
p60 「士族男女の平服」のイラストで、「はだし」の記述がある。
p61 「王族男女の礼服」のイラストで、「足袋 身分の高い者のみ着用を許された。」の記述がある。
p63 「農民男女の平服」のイラストで、「はだし」の記述がある。
p64 「これが古琉球の正装だ!」のイラストで、「靴 儀式が終わると、冠服をさっさと脱いでゆったりの琉装とハダシになって帰っていったそうです。」記述がある。


『琉球服装史』(嘉数 津子∥著、デザインセンター、1960.7)
p71 「草履(さば)」の項目で、「中世においては、男女とも草履をはいていた。士分の男女は皮で縁どられた草履をはき、百姓はたまさかのときに草履をはいた。普通は洗足であるけれども、もし草履をはいている時に上級士分の者に会えば、簪をとると共に草履を脱ぎ去って、低頭の礼をつくしたに違いない。」の記述がある。
p95 「足袋」の項目で、「足袋も下駄も十七世紀に入ってから本土から伝えられたものである。足袋は親方以上に許され、親方は黒足袋、按司以上は白足袋であった。」の記述がある。
p95 「下駄」の項目で、「士分に許された。親方以上は皮の鼻緒で、親雲上以下は、練緒(ぬりお)といって藺や棕梠の皮でつくられたものであった。このほかに履物として草履(さば)・靴(ふや)があった。靴と、十八世紀の頃から王城夜勤番のはく皮製の雨靴のあったことが知られているが、共に形状は不明である。」の記述がある。
p113 「履物」の項目で、「上級士分の女は足袋を用いた。上級士分男女の草履は竹皮草履、下級士分は藺草履、百姓は阿壇葉草履と草履にも厳しい区別があった。」の記述がある。


『八重山生活誌』(宮城 文∥著、沖縄タイムス社、[1982.3])
p94-96 「身分制度による服装」の項目で、「十六世紀の初め頃尚真王は官職にある者の服装を制定…その他着物、帯、履物に至るまで上下の差別を制定し、一般庶民に至るまで、上下の差別を制定したという。」の記述がある。
「制定された服装」の表で、「在番・頭・首里大屋子 足袋白 草履下駄・竹の皮草履、与人・大目差・大筆者 足袋黒 草履下駄、脇目差・脇筆者・目差 島製裸下駄 足袋許されず、平民 下駄草履傘許されず特別の時アダンバゾーリだけ許された。」の記述がある。
p96-98 「士分の結婚服装」の項目で、「花婿の服装…履物=白足袋、ジョーリンギタ(草履下駄)をはく。」「花嫁及び媒酌人の服装…ジョーリンギタ(草履下駄)をはく。」「アイナーヌアウ(花嫁のお伴)の服装…竹の皮かアダンバの草履または裸下駄をはく。」の記述がある。
p99 「士分男子の服装」の項目で、「一般士分の盛装は花婿の服装と大同小異である。異なる点は、白足袋が黒足袋に、草履下駄が裸下駄に、朝衣がつい丈のタナシに代わるだけである。」「平服 裸下駄またはアダンバぞうりをはく。」の記述がある。
p100 「士分の幼年男女児の服装」の項目で、「下駄は裸下駄をはく。(アダンバぞうりをはくこともある。)」の記述がある。
p101-109 「士分婦女子の服装」の項目で、「盛装…下駄は草履下駄または竹の皮ぞうりをはく。」「労働着…足は跣。」の記述がある。
p109-112 「平民の服装」の項目で、「男礼服…足袋、下駄は許されず、アダンバ草履をはく(アダンバぞうりも特別の時だけ許された)。」「平民婦女子の礼装…アダンバゾーリをはく。(普段はアダンバゾーリを許されず。)」の記述がある。
p112-113 「身分制度の撤廃」の項目で、「明治十二年廃藩置県となり教育令が布かれさらに十三年には四民平等制となって旧来の身分制度は撤廃となり、平民の新身分制度が確立された。しかし平民の身分制度が適用されても、平民の老人連は旧時代の身分観念がこびりついて大正の頃まで士族に一目をおいて、三才の童子にも年寄連はやはり「ウーフー」と敬語を使い、また士族の老人連も士族だという自尊心を持ち続けていたが太平洋戦争後は全くそのような観念は消えてしまったようである。」の記述がある。


『中山傳信録』(徐 葆光∥著、榕樹書林、1999.5)
p384-394 「冠服」の項目で、p391 「足袋(24)は布か革で作る。短かくて、上は踝の所まで来る。後のまんなかが開くようになっていて、(紐がついていて)互に結びあわせる。足のゆびの近くに、別に穴をあけて親ゆびを作り、草履をはくときに、鼻緒をかける。?(草履)(25)は、細藁をあんで作る。前の方に鼻緒をつけ、親ゆびの間にかけ、踵の方はひきずって歩く。男も女も、ともにはく。」の記述がある。
p394 「(24)原文は「襪シトウズ」であるが、足袋タビとした。方言はンチャービ・タービ。国王の皮弁皮服には、襪、つまり唐御足袋トゥンチャービが用いられる。黒紗綾の長筒足袋で足まわりは厚地の絹が二重にあてられている。一般に足袋をはくのは、上士以上であって、平士では、座敷位の老人と小赤頭に限られていた。自分の婚礼には、平士も足袋を用いた。足袋は、白・黒・赤とあり、男子は長筒足袋が本式である。座敷以上が白、他は黒、赤は舞踊に用いる。筒なしの足袋は、上士以上の女性用であった。筒なしでも、現在の足袋よりは五センチメートルほど長かった。(25)草履を、王族はヌージャレー、上士はウジェレー、他はサバとよんだ。履物は、士以上に限られ、平民は六十歳を過ぎて許された。国王の草履は、藁の芯で作られて二重のもの。王妃は竹の皮の二重で、緒は一本よりの太緒。王子のものは、竹の皮で作り、二本よりの太緒。親方のものは、竹の皮の細より三本の太緒。平士は竹皮一枚よりを数本束ねたバラ緒。藺草の草履は、遊女と平民のもので、裏に牛皮をつけたものは皮草履といった。阿旦葉草履は最下位のものであった。」の記述がある。
→ 『中山傳信録』は1721年刊行。


『那覇市史 資料篇 第2巻中の7』(那覇市企画部市史編集室∥編、那覇市役所、1979.1)
p182 「履物」の項目で、「草履はもともと材料によって竹皮草履(ダキヌカーサバ)、藺草履(イーサバ)、阿旦葉草履(アダンバーサバ)の三種がつくられた。竹皮草履は士以上の履物であり、外の二つは平民用である。士のはく竹皮草履は鼻緒の形で身分の上下をあらわし、王子用は二本太より竹皮緒、按司用は太ねり竹皮緒、上士用は竹皮細ねり三本合せ緒、平士用はバラ緒とよばれる竹皮一枚よりを数本束ね合わせたものである。藺草履は遊女や百姓の老人用で、のちに裏に牛皮をつけたものがつくられ、皮草履(カーサバ)とよばれた。大正のはじめごろから竹皮草履の生産がへり、士女でも藺草履をはくようになったが、牛皮の裏のつかないものをはき、同じ藺草履でも裏に牛皮のついた皮草履とよぶものは昭和期までずっと平民の間で使用された。阿旦葉草履は一般平民の外出時などにはくものである。明治末期ごろから次第にこの封建時代の旧制はくずれ、一方大正から昭和にかけて県外から表畳にゴム裏付の草履や麻裏付の草履が大量に移入され、士、平民を問わず上下の階級ともこれらの草履を使用した。」の記述がある。
p182-183 「下駄」の項目で、「王国時代の下駄(アシジャ)は歯のないぽっくりに近い形のもので、厚い台裏の中央部をえぐりとった下駄である。中流以上の下駄は藁の芯で編まれた畳付で、へりのまわりを真鍮や銅の細釘で固定してある。下級士の下駄には畳はない。鼻緒は、王族は白皮緒、上士は表白裏黒の皮緒、脇地頭の親雲上は黒皮緒、平士は茶色木綿緒である。また平士の普段履きの下駄には竹緒も使用され、平民は縄緒であったが、明治後半より次第に和製の下駄にかわり、封建的風習はくずれ、百姓も晴着姿の時は自由に和製の下駄をはくようになった。しかし、地方の農村ではほとんど素足で、正月下駄とよんで年一回、年の暮れに正月用の下駄を買う家が多かった。首里、旧那覇の都市地域でも庶民の素足は多く、県外からの外来者からの批判もあって、昭和十四年頃、旧那覇市内での跣足禁止令がでるという他に見られない珍現象も起こった。」の記述がある。
p183 「洋靴」の項目で、「洋靴は洋服が着用される以前に明治のはじめから首里の一部の貴族の間ではかれ、洋服が着られるようになってから県庁役人などの官吏や学校教師などの間ではかれるようになった。また師範学校生には官費による靴の支給があり中学校でも制服の制定とともに靴をはいたが一般庶民への普及は容易には進まなかった。明治・大正から昭和にかけてズックとよばれるゴム底の木綿靴が都市の学童や中学生の間に広く用いられるようになり、一方大正の頃から労働者の間に底部を木綿の荒布でつくられた地下足袋が使用され、やがてゴム底の地下足袋へと変わっていった。」の記述がある。


『勝連村誌』(福田 恒禎∥編、勝連村役所、1966.4)
p72-73 「履物その他」の項目で、「奉行人(間切や村の役人)に限り、草履だけは許されたが、下駄は百姓である限り絶対に履くことは出来なかった。一般百姓はいつでも跣足で通した。履物が自由になった廃藩置県後も、田舎の人は之を用いる気もなかったようである。明治の末期まで奉職人(務人)の外は、正月と盆以外の晴天の日は、男女とも殆んど跣足、只雨天の時だけ藁縄や、アダナシ縄(阿旦の気根で綯ったもの)などをすげた手製の下駄を年輩の男の半分位は履いていたが、女が下駄を履いて外を歩いたら、変わりものだウワーチャーだと忽ち村の評判になる位のものであった。その頃まで指導層の人でも他行の際、途中は皮草履を帯にさして持ち、跣足で歩いているのはよく見る風景であった。」の記述がある。


『昭和の沖縄』(琉球新報社会部∥編、ニライ社、1986.5)
p97-101 「はだし禁止」の項目で、「跣足取締規則…昭和十五年十一月一日公布、翌十六年一月一日施行。」の記述がある。
回答プロセス
(Answering process)
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
社会科学  (3)
参考資料
(Reference materials)
誰も見たことのない琉球 上里 隆史/著 ボーダーインク 2008.6, ISBN 4-89982-144-1 (p30-31,33,40)
琉球戦国列伝 上里 隆史/著・監修 ボーダーインク 2012.3, ISBN 4-89982-221-9 (p36-43,68-71.88-89)
マンガ沖縄・琉球の歴史 上里 隆史/著 河出書房新社 2016.8, ISBN 4-309-22681-1 (p57,59-61,63-64)
琉球服装史 嘉数 津子/著 デザインセンター 1960.7 (p71,95,113)
八重山生活誌 宮城 文/著 沖縄タイムス社 [1982.3] (p94-113)
中山傳信録 徐 葆光/著 [冊封琉球使録集成] 榕樹書林 1999.5, ISBN 4-947667-59-1 (p384-394)
那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇市企画部市史編集室/編 那覇市役所 1979.1 (p182-183)
勝連村誌 福田 恒禎/編 勝連村役所 1966.4 (p72-73)
昭和の沖縄 琉球新報社会部/編 ニライ社 1986.5 (p97-101)
キーワード
(Keywords)
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000260150解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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