レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/03/25
- 登録日時
- 2016/04/01 00:30
- 更新日時
- 2017/05/16 14:53
- 管理番号
- 1000000840
- 質問
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未解決
琉球王府時代、金銭等により新たに士族の地位(家譜)を得る際に必要とされた金額について知りたい。
- 回答
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①
『氏集 首里・那覇』(那覇市市民文化部歴史博物館 編・刊、2008.10)
序 「氏集 首里那覇〈解説〉 源武雄」で、「新参の士(さむらい)のことを、コーイサムレー(買った士籍)と俗に云われていたように、財政窮乏の琉球王庁に銭貨を献金して、その代償として士籍に入れてもらうという制度が作られたのである。宇氏家譜によると、その一世は銅銭十六万貫文を献金して新参士籍に入れられている。その後更に第二回目に銅銭十八万貫文を献金して譜代の士籍に入れられている。」の記述がある。
②
『沖縄大百科事典 中 ケ~ト』(沖縄大百科事典刊行事務局 編、沖縄タイムス社、1983.5)
p475 「新家譜」の項目で、「新家譜の給賜は平民から士族(新参士)にのぼることを意味したが、給賜には①訴後れ、②勲功、③献金の三つのケースがあった。(中略)③は厳密には②の範疇に入るが、王府への金銭の借し上げ(御加勢)などにより給賜されたケースである。18世紀半ば以降、王府財政の逼迫のなかで、王府の求めに応じて金銭の借し上げ、または自己負担による公共工事の遂行などの功により給賜された。借し上げは当初定額ではなかったが、のちには銅銭16万貫といわれた。」の記述がある。
③
『東恩納寛惇全集 4』(東恩納 寛惇 著、第一書房、1979.4)
p113-114 「(24)新家譜」の項目で、「この慣例は、近世尚育時代、大体化政頃からの現れで、その金額も、後には一階昇格は十六万貫、二階昇格は倍の三十二万貫、これは鳩目勘定で、銅銭にすると、三千二百貫文と、六千四百貫文、金にして、三千二百円と六千四百円に当る。然らばこの相場は何を基準として定められたかというに、恐らく先例というほどの事であろう。」の記述がある。
④
『琉球の歴史』(東恩納 寛惇 著、至文堂、1966.11)
p158-161 「士族株の下落」の項目で、p159-160 「無系の平民が、勲功により士分に取り立てられる場合、しかじかの勲功により新家譜を賜わるという名義で、昇格は、平民ならば新参士に、新参ならば譜代士に列する。」の記述がある。
p160 「新家譜を賜わるほどの大功は大抵献金に限られていた。(中略)この慣例は、近世尚育時代からのことで、その金額は、一階昇格は十六万貫文(三千二百円)、二階昇格は三十二万貫文(六千四百円)であった。この相場は何を基準として定められたかというに、多分差し迫っての所要額を内示して助成を命じ、それを受諾して寄進に付いたことが先例となったものであろう。」の記述がある。
p161 「貫分勘定は琉目(りゅうめ)と唱えて、鳩目銭勘定で一貫文が普通銅銭の二十文、金の二銭に当る。米一升が一貫文の常価であったから、前出十六万貫文は一千六百石の米の価で相当な額になる。」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 1 氏集 首里・那覇 那覇市市民文化部歴史博物館∥編集 那覇市市民文化部歴史博物館 2008.10 K288/N27 序
- 2 沖縄大百科事典 中 ケ~ト 沖縄大百科事典刊行事務局∥編 沖縄タイムス社 1983.5 K03/O52/2 p475
- 3 東恩納寛惇全集 4 東恩納 寛惇∥著 琉球新報社∥編 第一書房 1979.4 K08/H55/4 p113-114
- 4 琉球の歴史 東恩納 寛惇∥著 至文堂 1966.11 K201/H55 p158-161
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000190568