レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年3月20日
- 登録日時
- 2019/04/25 11:01
- 更新日時
- 2019/07/25 12:27
- 管理番号
- 2019-4
- 質問
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解決
享保の大飢饉において松山藩では5,000人の餓死者が出て、幕府から1万2千両の拝借金が出たが、その使い道を知りたい。
- 回答
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【資料1】
「第二章 藩政の展開(中予)の「第一節 松山藩」、「四 享保の大飢饉と松山藩の惨状」に「この時松山藩の借入した拝借金が、いかに使用されたかについては、いろいろな疑問を生ずる。それは、この当時執政の衝にあった奥平藤左衛門が翌一八年九月五日に、ついに役儀召放され、久万山へ蟄居を命じられたことであって、この当時の藩庁の記録によると、藤左衛門の罪籍の一つとして、大坂において受け取った幕府の拝借金を平野屋五兵衛へ残らず渡したことをあげ、不調法の至りと評している(山内家記)点である。したがって、この時の拝借金の使途ならびにその結果が時宜を得なかったことは明らかである。ところが、この間に政治問題が介在しているから、この史料によって直ちに拝借金が救済策に使用されず、ことごとく他に流用されたと断ずることは、軽率のそしりを免れないであろう。」とある。
【資料2】
「第一章 社会事業の創始」「第一節 近代以前の慈善救済」の中の「享保の飢饉と伊予諸藩の救済策」には、今治藩が「豪商・豪農などからの臨時御用金や幕府からの拝借金を資金に大坂・尾道などで米穀を買い付け、救済に当てている」のに対し、松山藩は「幕府からの拝借金一万二千両が救済にために使用されず、当時執政の要職ににあった奥平藤左衛門から大坂の豪商平野屋五兵衛に残らず渡すという不始末があった。奥平藤左衛門は享保十八年九月五日、役儀召放しとなり、久万山へ蟄居を命じられた」とある。
また、「享保の飢饉における伊予各藩の主な救済策」として松山藩が行ったものとしては、
○救助米給与、1日1人(3勺6才→5勺→1合)
○蔵改め・米蔵封印などによる米の領外流失防止
○塩・味噌・大根・麦・ひじき・あらめ・糠などの賑給
○貢租免除、負債の免除
○米穀払い下げによる米価騰貴防止
○野菜・蕎麦などの栽培自由化
○藩士に対する人数扶持の実施
が挙げられていた。
【資料1】と【資料2】より、松山藩は幕府からの拝借金が大坂の豪商の手に渡ってしまい、救済のために使用されなかったということが考えられるが【資料1】の「この間に政治問題が介在しているから、この史料によって直ちに拝借金が救済策に使用されず、ことごとく他に流用されたと断ずることは、軽率のそしりを免れないであろう」という記述もあることから、断定はできないものと思われる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『愛媛県史 近世 上』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1986 <当館請求記号:K200-31>
- 【資料2】『愛媛県史 社会経済5 社会』 愛媛県史編さん委員会/編 愛媛県 1988 <当館請求記号:K200-31>
- キーワード
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- 享保の大飢饉
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000255342