『三重県史 通史編近現代1』(三重県/編集 三重県 2015)には以下のような記述があります。
(津から四日市への移転について)
「こうした新県への引継ぎによって旧県吏員は基本的に免官されることになったので、大量の非役を出した旧藩士、特に当初安濃津県庁が設置されていた津の旧藩士達の不満は相当に強く、その不満は新任の他国者の参事・県令に向けられた。(中略)
着任早々で旧県からの引継ぎ事務の最中であった七二年二月二十七日には、県庁を安濃津から四日市へ移すこと、ならびに県名を四日市のある三重郡からとって三重県に改称することを井上大蔵大輔に上申した。公式の理由は四日市が「海陸湊合ノ地管内施政ノ都合」が「事々便利」ということであったが、旧津藩士からの圧迫を感じていたのは明らかであった。(後略)」(p10-11)
(四日市から津への再移転について)
「一八七三(明治六)年十二月十日、三重県は県庁を四日市から津藩の藩校有造館を改称した旧津県学校へと移転した。これより先の同年五月に、三重県参事だった岩村定高は県庁の津移転を大蔵省に進言したが、その理由は県庁舎であった旧幕陣屋跡が手狭であり、また四日市では県庁職員の住居を確保できないということと並んで、伊勢国を二分する三重県と度会県が近々に合併することを想定して、その場合に津が伊勢国の中央部にあって運輸の便がよいことをあげていた。
岩村の両県合併予測はすぐには実現しなかったが、七六年に行われた全国的な府県統廃合の中で実現した。(後略)」(p69)
また『四日市市史 第18巻 通史編 近代』(四日市市/編集 四日市市 2000)には以下のような記述があります。
(津から四日市への移転について)
「(前略)新県には県令が置かれず、愛知県士族の丹羽賢が参事に任じられた。一二月二五日、丹羽は津の大門町内旧本陣を仮県庁とした。赴任前から丹羽は津を県庁とすることに反対で、四日市を県庁としたい意向であったが、大蔵大輔井上馨の説得で津を県庁とした。仮県庁開設の翌日には、管内に対して、新県政に不満・疑念のある場合は旧県官吏に申し出ることを諭告した。翌七二年一月五日には県庁を津観音前の元御客屋(津藩の迎賓施設)に移転したが、二二日には四日市に出張所を設置し、参事・権参事以下安濃津県の主立った県官が揃って出張した。丹羽参事は人心動揺を戒め、場合によっては即決処分があり得ることを元津県の名で管内に布達させた。(中略)
このような布達が出された背景には、前年一二月の伊賀国騒動があったが、それ以上に新県令と新県吏僚に対する旧津藩士族層の公然たる抵抗への恐怖があった。
廃藩置県によって新置の県官は他藩出身者が起用されたため多くの府県で旧藩士族層と新県吏僚層との軋轢が生じた。特に戊辰戦争の勝者であった西南雄藩地域でその傾向が強かった。津藩士族層も戊辰戦争での活躍に比して新政府内での自分たちの位置付けの低さに大きな不満を持っていたから、津に県庁を設置することは当初より県治の困難をもたらした。
二月二七日、丹羽参事は四日市移庁と三重県への改称を政府に願い出、三月一七日には、太政官第八五号布告として移庁と改称が示達された。同月二八日には四日市の旧陣屋跡に県庁を移転するが(後略)」(p3-4)
(四日市から津への再移転について)
「(前略)丹羽の後任となった岩村は丹羽によって確立された新県政の方向をさらに拡大し、度会県をも含めた大三重県の実現を志向しており、四日市での立庁は二つの点で彼の構想を制約していた。第一には三重・度会両県が統合されるとするならば、四日市は位置的に北部に偏りすぎており、安濃津の方が新県の中央に位置することになる。第二に、大規模化しつつある県庁機構を維持するためには旧陣屋跡に設置されている施設ではあまりにも狭小であるし、県の吏僚層の住居の確保もままならないことになる。(中略)
翌七三年五月になって、岩村は三重・度会両県の合併を見越して県庁の津移転を大蔵省に建言した。これに対して、四日市の住民は岩村参事に対して移庁反対の嘆願を行ない、(中略)しかしこれらの嘆願も効を奏さず、七月一五日には太政官より県庁の津移転許可がなされ、一二月一〇日、旧津藩校有造館跡にあった津県学校の講堂を仮県庁と定めて津への移庁が行なわれ、一五日には移転完了届けが岩倉右大臣宛に提出された。」(p5-6)