詳細な記述は見つけられませんでしたが、次に紹介する各資料に城主の水谷氏と大鳥居城について記載がみられました。水谷氏の名前の表記については資料により数種類の違いがありました。また水谷氏の子孫については情報を見つけることが出来ませんでした。
①長島町誌 上巻
・p28「三重国盗り物語」付録の「北畠家臣帳」から北勢四十八家の姓名と居城の場所を列記する中に「桑名郡 水谷与三兵衛(野代大鳥居)
・「第四節 長島願証寺と織田信長との抗争」
p42「天正二年一向一揆織田信長公長島攻図」各城の位置を示した地図
p43各城の配備状況の中に「大鳥居 水谷与三兵衛盈吉 宗徒数二千五百人」
・「第五節 長島の落城」
p64「大鳥居砦落城」餓死者が出始め、水谷与三兵衛盈吉が一命に替えて開城降伏を申し出るが受け入れられず全滅した。
・「第七節 長島戦乱当時の城砦その他の考証」
p76「大鳥居砦」「西美濃方面に対する重要な堡砦で、五端城の一つである」とし、伊勢名勝誌、桑名誌、五鈴遺響、信長公記の記述を引用して戦乱当時の様子を描写する。
②桑名郡志 上巻 江間政発/著 歴史図書社 1980
・p74「大鳥居 水谷與総兵衛盈吉」「旧記ニ彦左衛門トアリ」以下主に長嶋一揆の際の動きについて記述。「事実ハ一揆ノ條ニノス」とあるためそちらも確認。
・「長嶋一揆」
p97「大鳥居(揖斐川ノ南ニテ長嶋城ノ西ニアタル)に水谷與総右衛門」、p98「是ヲ見テ大鳥居ノ水谷貝ヲ吹ハ」、p111「大鳥居ニ篭タル者忍出タルヲ追付男女二千計切捨」など、何カ所かに記述あり。
③桑名郡史 下巻 江間政発/著 歴史図書社 1980
・p368「大鳥居城址」の項目
「遺址未詳」とし、上巻の長嶋一揆部分の内容を簡潔に記述。
④三重県史料 下巻 小野茂吉/編 文献出版 1979
・「北勢四十八家 伊勢軍談に曰く 北勢四十八家由来」として各氏の説明
p851「(七)水谷家 桑名郡大鳥居城主に水谷與三兵衛なる者あり」
⑤桑名市史 本編 近藤杢/編,平岡潤/校補 桑名市教育委員会 1987
・「第四章 北勢四十八家と桑名の土豪」各家を城、城の場所、名前、居住した時代の順で列記している章
p84「大鳥居城 野代 水谷与三兵衛盈吉 天正二・八・二落城」
・「第一章 織田信長の北勢攻略」
p135「八月二日大鳥居に続いて十二日には篠橋が落城し」
⑥長島風土記 金森 勝/著 清文社(印刷)2000
p12「三重県の城」から引用された略地図「北勢の諸侍(室町後期・永禄年間)」各城の市と城主名あり。桑名郡の中に「大鳥居城 水谷彦左ェ門」
p64「おもな国侍門徒」の中に「水谷与三兵衛盈吉(多度町大鳥居)」
p68-69「美濃方面に関する防御線」「大鳥居」の項目「多度神社の鳥居があったので大鳥居という。」とし、以下伊勢名勝誌、信長公記、勢陽五鈴遺響から引用して戦乱当時の様子。
⑦織豊期研究 第17号 織豊期研究会/編集 織豊期研究会 2015
・石神教親「長島一向一揆」
p76「図2 長島一向一揆位置図 二 天正元年(1573)」
p78「図3 〃 三 天正二年(1574)1」
p79「図4 〃 四 天正二年(1574)2」各城の位置図。大鳥居城跡あり
p77信長公記を引用し、大鳥居城落城の状況を記述
⑧新桑名市誕生10周年記念シンポジウム「戦国・織豊期@桑名」<資料集> 桑名市教育委員会,自治総合センター 2014
p43「桑名市内城跡位置図」上の資料7と同様の位置図。「10大鳥居城跡」あり
⑨三重・国盗り物語 伊勢戦国兵乱私記 服部哲雄/著,芝田憲一/著 伊勢新聞社1974
・p90-91大鳥居城で餓死者が出始め、水谷与三兵衛盈吉が一命に替えて開城降伏を申し出るが受け入れられず、千人が殺害され全滅した。
・付録(ページ表記なし)北勢四十八家桑名郡の中に「水谷与三兵衛(野代村大島屋)」
⑩勢陽五鈴遺響1 安岡親毅/著,倉田正邦/校訂 三重県郷土資料刊行会1975
・「桑名郡」
p64「大鳥居砦蹟」「水谷与三兵衛尉光吉住セリ元亀天正ノ間ナリ天正二年七月(略)廃亡セリ」
⑪勢陽雑記 山中為綱/著,鈴 敏雄/校訂,野田精一/校訂 三重県郷土資料刊行会1968
・p27-28「一 長嶋合戦、津田大隅守討死事、一 益任関東官領事」8月2日に大鳥居の一揆勢が逃げようとするところを2千人余りを討ち取った。
⑫久波奈名所図会 下巻 義道/著,工藤麟渓/装画,久波奈古典籍刊行会/編集 久波奈古典籍刊行会1977
・p29-42(釈文p168-171)長島古戦場 信長の長島攻めについて。大鳥居城が何度か出てくるが水谷氏については記載なし。
⑬三重の中世城館 三重県教育委員会/編集 三重県教育委員会1976
・p13-14「大鳥居城」水谷与三兵衛尉盈吉の居城。天正2年8月2日に落城(信長公記)、その後山岡景友が所有し(伊勢名勝誌)、江戸時代に廃城となった。その後の河川改修等で現在所在地不詳。図面なし
⑭伊勢名勝志 復刻 宮内 黙蔵/著 三重県郷土資料刊行会 1974
・p432「大鳥居城址」大鳥居村字畑田に在り小さな丘であり、現在宅地である旨。続けて
「永禄元亀ノ頃水谷盈吉之ニ居ル(略)後、山岡景友之ヲ領シ(略)」
※山岡景友は近江出身の人物のため、水谷氏とは関係がないものと思われる
⑮定本三國地志 上巻 復刻 上野市古文献刊行会/編纂 上野市,上野市立図書館(発売)1987
・「巻之十一 伊勢國桑名郡」
p138「大鳥居城」「水谷與三兵衛尉盈吉居守」
⑯長島略記
・4丁表 桑名郡の四十八家を列記する中に「水谷」
・7丁裏 「所謂一揆ノ城」として列記する中に「大鳥居 今長島ノ城ニ以乾ノ方行程一里半桑名領ノ内也 今至墟跡地ニ有」
⑰信長公記 現代語訳 太田 牛一/著,中川 太古/訳KADOKAWA 2013
・「(11)河内長島を攻撃」p232-233大鳥居城の攻防について。
⑱四日市市史 第16巻 (通史編 古代・中世) 四日市市 1995
・p607光秀への書状や信長公記を引用し、長島攻めの状況を記述する中に「大鳥居」が含まれる
・p609一向宗門徒として殺害された「水谷新兵衛」の名を挙げ、近隣の水谷姓の人物について関連があったのではないかと推測。しかし大鳥居城主の水谷氏にはふれていない
その他調査済資料(該当する情報なし):多度町史、長島細布、勢州軍記 上 註訳、伊勢国司記略、織豊期研究第16号(「長島一向一揆」再考)、戦国時代の北伊勢、四日市市 第7巻(史料編 古代・中世 織田信雄分限帳)、戦国期の真宗と一向一揆