当館所蔵の資料を調べましたところ、石柱についての情報は見つかりませんでしたが、以下の資料に落合貞蔵氏の名前がありました。具体的には、現在の津市芸濃町河内(こうち)にあたる地域の人物のようです。
『芸濃町史 上』芸濃町教育委員会/編集 芸濃町教育委員会 1986
p496 「同(=河内)村梅ケ畑垣内惣代 落合貞蔵」
この名前が出ている箇所は、「雲林院(うじい)五ケ村共有山林の分割」と題した近隣の五つの村の共有による入会山についての解説の中で紹介されている、明治13年に交わされた「立会秣(まぐさ)山條約証」の署名部分です。
この資料の内容と、お尋ねの内容を照らし合わせてみて、共有山林の分割にあたって何らかの石柱が設置されたのではないかと推測いたしましたが、しかし実際に分割が行われたのは明治42年のことで、このときに交わされた「共有山分割ニ関スル契約書」では、河内村梅ケ畑垣内惣代は貞蔵氏ではなくその長男の亀蔵氏となっています(落合亀蔵氏はのちに河内村長なども務めた人物です)。
また、津市中心部から芸濃町河内までは直線距離では約15km、ルート案内による距離でも17~18km程度で、いずれも条件として挙げていただいた距離とは合いません。
このように時期や距離の部分では条件は合致しませんが、他に有力な情報がないこともあり、上記の情報が最も可能性が高いものではないかと存じます。