島津忠重の別荘について記載のある資料として、下記を紹介した。
・『珍籍鎌倉文庫 3』 村田書店 1974
こちらは、明治45年(1912)7月15日発行された『現在の鎌倉』 大橋良平著 に同一内容が所収されている。
巻末の「別荘一覧」の中のp1~2「▲華族」の3番目と4番目に、島津忠重の別荘について以下の記載があった。
【別荘地】相州鎌倉長谷二〇二(記載は、同上二〇二)
【住所】府下荏原、大崎袖ヶ崎
【身分職業】公爵(記載は、同)
【氏名】島津忠重
【別荘地】相州鎌倉一の鳥居(記載は、同 一の鳥居)
【住所】府下荏原、大崎袖ヶ崎(記載は、同上)
【身分職業】公爵(記載は、同)
【氏名】島津忠重(記載は、同人)
※『現在の鎌倉』 大橋良平著の中の「別荘一覧」については、『海辺の憩い 湘南別荘物語』 島本千也 2000 の参考資料 3湘南の別荘族名簿の「鎌倉・鵠沼」p423~434に参考資料として引用転記されている。
・『鎌倉 第95号』 貫達人編 鎌倉文化研究会 2002
p41~p48「鎌倉の別荘族の時代区分について」 島本千也著のp46上段に、
「明治三十ニ年、鎌倉の御用邸が完成する。同三十年代、閑院宮・華頂宮・梨本宮などの皇族の別荘も建ち、島津・毛利・池田・佐野・伊達などの旧大名家の別荘も建っている。」と記載されている。
・『しらゆき -島津忠重・伊楚子追想録-』 島津出版会 1978
口絵写真p111に「鎌倉一ノ鳥居別邸」が掲載されている。この写真には「大正初年 忠重撮影」とある。
追想文p105~p112「島津さんを偲ぶ」 加藤光治著のp107に、
「その年の九月にはあの関東の大地震があり、それまで鎌倉のご別邸にあった温室もひどく傷んでしまったので、(中略)島津さんが洋蘭に興味をもたれて、その栽培をされるようになったのは大正二年(一九一三)で、鎌倉のご別邸に六十坪(二〇〇平方メートル)ほどの温室をつくられた時に始まり、(以下略)」と記載されている。
追想文p186~p192「島津忠重様ご夫妻を偲び奉る」 関通乃(みちの)著のp188に、
「お子様方が夏のお休みになりますと皆様は鎌倉のご別邸にお出でになり、公爵はここから軍令部へご通勤になりました。夏休みの終わりに近くなりました大正十二年九月一日に関東大震災があり、ご邸宅は倒壊し、(以下略)」と記載されている。
追想文p297~p331「追憶」 島津忠秀著のp297に、
「父を初め一家は当時神奈川県鎌倉町(現、鎌倉市)一ノ鳥居にあった別邸で暮らしていた。(中略)この鎌倉の別邸には私が学齢に達して東京住まいとなってからも、春・夏・冬の学校の休みや土曜・日曜などにもよく行ったものだ。(中略)住宅は和風の二階建てで百坪余りあったと思う。その南側は広い芝生になっていて、夏の夕方など線香花火をしたり、星を眺めて夕涼みをしたり楽しい思い出の数々がある。しかし、この別邸も大正十二年九月一日の関東大地震で倒壊し、その後昭和八年に平家建ての別邸が新築されたが、結局は今次大戦の終わり頃には処分してしまった。(以下略)」
p314に、
「古くは鎌倉一ノ鳥居の別邸に大きな洋蘭の温室があったが、これは大正十二年の関東大地震でだめになり、(以下略)」
p315に、
「古くは大正年間鎌倉在住の頃、この土地が砂地で桃に適していたこともあって五百坪程の桃の果樹園を持っていたし、その隣接地にはバラやダリア等の種々の品種を栽培していた。この邸は大正十二年の関東大地震でだめになってしまった(以下略)」
追想文p382~p385「憶い出」 筑波藤麿著のp384~385に「鎌倉」と立項され、鎌倉の海岸通りにある別荘のことが記載されている。
資料篇p480~p486「居住の場所」 のp481~483に「鎌倉の住居と別荘」と立項され、記載がある。