レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年06月15日
- 登録日時
- 2022/04/27 17:45
- 更新日時
- 2022/04/27 17:45
- 管理番号
- 福郷-160
- 質問
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解決
教育者の甫守謹吾について知りたい。
- 回答
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参考資料1『福岡県教育史』
p.332-333に「福岡県にこの開発教授法が伝えられたのは小学校令が公布される前後からで、東京師範学校にその教授法の講習をうけにいった甫守謹吾によってひろめられた。東京から帰ってから甫守は福岡師範学校でジョホノットの教育主義と作法、体操、唱歌の三科を教授するかたわら、土曜、日曜あるいは夏季冬季の休暇中各郡に出張して開発教授法や唱歌、体操、作法等の普及につとめ、なお「心性開発教授要論」を公刊した。彼の講習会においてはじめて唱歌に用いるオルガンの音を聞いて驚いた教師も多かったというから開発教授法はもとより、これまで難とされていた教科の教授法を啓蒙した点でその功績は大きい。」とある。
p.335-336註2に「同十八年同志津田利夫、細江新之助、甫守謹吾、広田耕労、島田寅次郎君等六七名と、福岡県私立教育会の組織を発起し、全県下の有志家教育者を網羅し、年々大会を開き月々雑誌を発行し、(略)」とある。
参考資料2『出郷以後筑豊之現代人 首府ノ巻』p.309-312
東京女子商業学校長、東京女子実修学校長、教育家として甫守謹吾が紹介されており、文久3年8月28日糸島郡桜井村出身であること、18才で福岡県県令から師範学科調査委員に命ぜられたこと、その後の教育者としての歩み、主な著作についての記載がある。
参考資料3『鶴陽会史』p.210-211
「甫守謹吾(M15)明治十五年七月福岡師範学校小学師範科を卒業。卒業と同時に師範学科取調員として上京、東京師範学校に入学、傍ら東京体操伝習所・東京音楽伝習所にも学び、卒業後は母校の助教諭福岡県御用係となった。さらに母校の生徒監・附属小学校監督をも命ぜられ、のち東京市視学となった。」とある。
- 回答プロセス
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自館検索。
- 事前調査事項
- NDC
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- 教育史.事情 (372 8版)
- 参考資料
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福岡県教育委員会. 福岡県教育史. 福岡県教育委員会, 1957.(自館資料コード1102641790)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000965727-00 -
筑豊研究会編纂部 編輯 , 筑豊研究会. 出郷以後筑豊之現代人 首府ノ巻. 筑豊研究会, 1926.(自館資料コード1102988961)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I054299717-00 -
鶴陽会史編集委員会 編 , 鶴陽会. 鶴陽会史. 鶴陽会, 1993.(自館資料コード1102647197)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002283774-00
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福岡県教育委員会. 福岡県教育史. 福岡県教育委員会, 1957.(自館資料コード1102641790)
- キーワード
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- 甫守謹吾
- 開発教授法
- 福岡県私立教育会
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000315517