レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年02月20日
- 登録日時
- 2021/01/21 16:23
- 更新日時
- 2021/03/11 18:10
- 管理番号
- 広県図2020074
- 質問
-
解決
広島県安佐郡戸山村の浄宗寺へ疎開していた皆実国民学校について,昭和20年8月6日当時の集団疎開の様子が知りたい。
- 回答
-
次の資料に,関連の記述があります。
『「戸山村」の8月6日:爆心地から13キロ、その証言』戸山民俗資料保存会「『戸山村』の8月6日」編集事務局/編,戸山民俗資料館,2011【H997/トヤマ111ア】
p.151-157 学童疎開
p.151 「皆実国民学校の百七十八人が昭和二十年四月から七月まで三次に分かれて戸山国民学校に入校。(略)(戸山小学校八十年記念誌「とやま」より。)」
p.151-155 戸山・伴への集団疎開
引率教員による手記が掲載されています。「『戦中戦後における広島市の国民学校教育』から転載」とあります。
『戦中戦後における広島市の国民学校教育』広島市退職校長会「戦中戦後における広島市の国民学校教育」編纂委員会/編集,広島市退職校長会,1999【H372.1/シタイ99ア】
p.89-134 集団疎開
p.101-105 「戸山・伴への集団疎開」 当時皆実国民学校勤務
上記『「戸山村」の8月6日:爆心地から13キロ、その証言』の出典です。
p.104に「皆実国民学校と疎開先との関係図」があります。
p.110-114 「初等科在学中の思い出」 当時皆実国民学校在学
集団疎開に関する記述はありません。
p.144-158 被爆の体験
p.144-146 「被爆体験の実態と児童の被害」 当時皆実国民学校勤務
集団疎開の引率教員名などが記載されています。筆者は学校残留組担当の教員です。
『あのとき閃光を見た 広島の空に』広島市教育委員会事務局社会教育部社会教育課/編,1986【H264/シキヨ86ア】
p.123-172 沼田町
p.126-128 学童集団疎開の受入れから解放まで
p.126 「これを受けて、伴村、戸山村では、広島市立皆実国民学校からの集団疎開を受け入れることとなり、(略)」
p.128 「なお、当時集団疎開の寮となった寺院は、(略)戸山村…浄宗寺、正善寺、法隆寺」
p.128-130 地域での被爆時の状況
p.130 戸山村では
「(略)学童疎開生のひとりは、(略)」
このほか,次の資料を調査しましたが,関連の記述は見付かりませんでした。
『とやま:創立戸山小学校80年・戸山中学校40年記念誌』戸山小中学校PTA/〔編〕,戸山小中学校PTA,1988【H375.23/トヤマ88】
p.40-58 学校の沿革
p.46-47に昭和二十年の記述があり,皆実国民学校の疎開に関する記述があります。
p.109-110 戦時中のわたし達の暮し
p.110-111 戸山中学校創立のころ
p.112-113 戦争の中で育った小学生の頃―疎開先での原爆体験記―
いずれも,皆実国民学校についての記述はありません。
『戸山ものがたり』戸山ものがたりを作る会/編集,戸山ものがたりを作る会,2007【H21.15/トヤマ107ア】
p.43-44 岡尾山 浄宗寺
学童疎開に関する記述はありません。
『沼田町史』広島市役所/編修,広島市役所,1980【H21.23/H73-4ア】
p.434-444 戦時体制下の村政
学童疎開に関する記述はありません。
『里に移りて 前後編』遠田人明/編集,遠田人明,2002【H996/エンヒ96aア】
『広島原爆戦災誌 第4巻』広島市役所/編集,広島市役所,1971【H26.1/H73/4ア】
p.179-184 広島市皆実国民学校
p.179 学童疎開状況
疎開先地名 安佐郡伴村・戸山村
教職員数,児童数が掲載されていますが,氏名は掲載がありません。また,具体的な疎開受け入れ先も掲載されていません。
『広島県史 近代現代資料編3』広島県/編集,広島県,1976【H21/H73-3/22ア】
p.713-717 広島市立皆実小学校児童の手記
p.713-714 「浄宗寺寮の生活」鷹尾伏和安
引率の先生の氏名等は記載されていません。
他に3人の手記が掲載されていますが,具体的な地名・寺名はなく,引率教諭の氏名も記載されていません。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 戸山村
- 浄宗寺
- 学童疎開
- 集団疎開
- 皆実国民学校
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000292758