おたずねのことについて、下記資料を確認しました。
何をもって創設とするかは個々人の解釈によりますので、1798年が正しいかどうかは回答いたしかねます。
参考になると思われるところを抜粋いたしましたのでご覧の上、ご判断ください。
また、4の資料をを除いて貸出可能な資料ですので必要な場合は最寄の公共図書館から相互貸借(図書館間の貸出)をご利用の上ご自身でご確認いただけますようお願い申し上げます。
1.『福島大百科事典』 福島民報社福島大百科事典発行本部/編 福島民報社 1980
p707 「日新館」の項より
「1664年(寛文4)に設けられた稽古堂、1674年(延宝2)設置の講所の伝統を基礎とした」
「1789年からの藩政改革のひとつ」
2.『福島県教育史 第1巻』 福島県教育センター/編集 福島県教育委員会 1972
p81 「藩主保科正之の庇護のもとに、横田俊益の発起並びに計画に基づき、寛文4年(1664)閏5月稽古堂が創設され」
p85-86 「 そこで容頌は、寛政11年(1799)4月7日書経の「日日新而又日新」や易経の「聖徳謂之日新」にもとづいて、学校を日新館と名付けることとし、4月13日新校舎の造営に着手した。(中略)
こうして日新館は、五代容頌の命名により、田中玄宰が総司となって、2年6ヵ月の工程をもって、享和元年(1801)10月文武学舎が完成し、さらに2ヵ年、同3年(1803)10月には?宮(大成殿)の造営成り、釈奠の礼が行われた。」
3.『会津若松史 第4巻』 会津若松史出版委員会/編 会津若松市 1981
p251 「会津藩の学校は、寛文4年(1664)正之の治世に、横田俊益らによって士庶の学問所として創立された稽古堂に由来する。正之の子三代正容の代になると、武士の教育を対象とした講所が、元禄元年(1688)に設置され、同2年には甲賀町口東北角に庶民を対象とした学問所が開設された。これらは稽古堂の転身したものであって(後略)」
p252-253 「ここで玄宰は(中略)天明7年(1787)2月藩政改革の建議八ヵ条を上提した。(中略)その改革の重要な一部門として実施されたのが、同8年(1788)の学制刷新であった。」
p256 「こうして容頌は寛政11年(1799)4月7日、書経湯盤銘の「日日新而又日新」や易経の「聖徳謂之日新」の言葉にもとづいて、学校を日新館と名付け、4月13日新校舎の造営に着手した。」
4.『近世藩制・藩校大事典』 大石 学/編 吉川弘文館 2006
p284 「その後、幾度かの拡張改革を経て藩主容頌の天明8年(1788)に田中玄宰を奉行として城西米代一之丁と二之丁の間に広大な学問所の建設に着工し、寛政11年はじめて日新館と命名された。」