レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20160927
- 登録日時
- 2019/04/12 00:30
- 更新日時
- 2019/04/17 00:30
- 管理番号
- 徳郷20160908
- 質問
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解決
明治9年から13年の高知県時代、『高知県史』では、県令が頻繁に徳島へ出張の記載があるが、陸路、海路いずれの手段で徳島・高知を往復していたのか判断できる資料はあるか。
- 回答
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海路を使っていたと見られる記述が、
【A】『高知県史 近代編』にあり。
「第九節 陸路と海路」のp90-91より、郵便報知(明治10年1月26日)に掲載された高知県通信の件から。
「三菱汽船毎月四、五度計り浪華より往復し物産を輸送し便利よし」
「徳島への行程は凡五十余里なれども、山間は絶瞼にして航路艱難なり。故に行旅三菱の汽船に塔じ海路をとり、大坂を経て行く者多し。迂路に似たりと雖も、陸路の険難に比すれば余程便利なり」
当時は、阿波の国が高知県の管理下におかれていたので、県官の往来も多かったと思われるが、その旅程も大阪を経由して徳島に通ずる海路が選ばれたのである。
また、三菱会社所有船舶の明治9年1月の航路航海表が
【B】『近代日本海運生成史料』
p256に、掲載されている。それによると、神戸、大阪それぞれと高知を結ぶ便が運航されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 海運 (683 8版)
- 参考資料
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- 【A】高知県史 近代編 (218.4コオ26-390-91高知県/編 高知県 1970)
- 【B】近代日本海運生成史料 (683.2ニツ256財団法人日本経営史研究所/編 日本郵船株式会社 1988.10)
- キーワード
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- 高知県、 県令、 交通
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000254850