レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年5月11日
- 登録日時
- 2021/04/04 17:50
- 更新日時
- 2022/09/15 17:51
- 管理番号
- 0004
- 質問
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解決
1945(昭和20)年7月30日、守山駅にてB29による列車への機銃掃射の被害状況について
- 回答
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『滋賀県の歴史』によると、「死者3人、重軽傷者24人」
『戦争なんか、大キライ2』によると、「3人が亡くなり、24人がケガをした」
『守山市史 中巻』によると、「即死十一名、多数の負傷者」
『守山市誌 歴史年表』によると、
P19「即死11人と多数の負傷者」
P100「死者3名、重軽傷者27名」
『勝部史誌』によると、遭遇された人の話として
「この時の被害で亡くなられたのは、民間では友人2名の他に、江州煉瓦(株)の関係者2名、駅前住民1名を含む17名で、47名の方が怪我をされ、野洲病院、岸本病院に運ばれた」
『守山から日本の歴史を見る』によると、「11人が亡くなり、24人がケガ」
『滋賀県の百年』によると、
「この日の野洲郡の被害は、守山駅に停車中の列車に対する艦載機の機銃掃射によるものであった。即死十一人のほか多数の負傷者をだした」
『滋賀県百年年表』によると、
「野洲郡守山駅空襲される、死者3、重軽傷者27を出し、野洲郡医師会救援活動をする」
『滋賀県医師会七十年史』によると、
「死者 (中略)計三名
重症者 (中略)計六名
軽症者 (中略)計十八名」
『本土決戦と滋賀』によると、
「県のまとめでは、死者一一名、負傷者二四名」
「県外の遺体がまとめて一寺院で荼毘にふされ、七名ほどであった」
「ほかに県内の遺体が二体、別の寺院で荼毘に付された」
そのほか4名の死亡の証言をあげ「『守山市史』は、一一名の死亡としているが、実際の犠牲者はもっと多そうである」
としている。
『朝日新聞大阪版』1945年7月31日朝刊によると、
「旅客列車と駅舎を襲撃したが、いづれも被害軽微で爆弾による某所の火災も十一時ごろ鎮火した」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216)
- 参考資料
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- 『滋賀県の歴史 第2版』畑中誠治,山川出版社, 2010(S216.1)P327 , ISBN 4-634-32251-X
- 『戦争なんか、大キライ2』滋賀県総務部総務課, 2003(S210.7)P9
- 『守山市史 中巻』守山市史編纂委員会,守山市, 1974(M216)P1080
- 『守山市誌 資料編 歴史年表』守山市誌編さん委員会,守山市, 2002(M210)
- 『勝部史誌』勝部史誌編纂委員会,勝部自治会, 2017(M216.1)P145
- 『守山から日本の歴史を見る』守山歴史教材研究会,スペース工房, 2017(M216.1)P32
- 『滋賀県の百年』傳田功,山川出版社, 1984(S216.1)P255
- 滋賀県百年年表』滋賀県史編さん室,滋賀県, 1971(S210)P142
- 『滋賀県医師会七十年史』滋賀県医師会, 1958, P421
- 『本土決戦と滋賀』水谷孝信,サンライズ出版, 2014(S216.1)P108-114
- キーワード
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- 野洲郡
- 守山町
- 守山市
- 滋賀県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000296648