1.お玉ヶ池種痘所の組織・人事等について
お玉ヶ池種痘所は、資料1p.54-57「お玉ヶ池種痘所」ができるまでの種痘の概略年表」によると、1858年設立、1860年官立となり、現東京大学医学部の前身であるという記述がある。
資料2に「第2節 種痘所・医学所」、p.288に「東京大学医学部の名称と所在地の変遷一覧」があり、1858年5月神田お玉ヶ池松枝町に開設され、同年12月火事で焼失、下谷和泉橋通に移転。1862年西洋医学所と改称したとの記述がある。p.49-59「1 種痘所の創立と官立化」の項目に経緯と職員・組織についての記述がある。
資料3「『武鑑』にみえる幕府の医師名」に西洋医学所の医師の名前がある。
p.785-895「江戸幕府の医官譜」があり、お玉ヶ池種痘所及び医学館双方の官立となった以降の記事がある。
「1791年医学館講業の事、この7月25日よりはじめらると令せらる。」、「1863年医(西?)洋医学所の儀、以来医学所と唱え替えらる。」との記述がある。
資料4に種痘所・西洋医学所・医学所としてp.15-27「1 種痘所敷地提供に関する川路聖謨の御内意伺書」等の資料が集められている。
雑誌論文では、
雑誌『日本医史学雑誌』 思文閣出版の索引(昭和55年刊)p.105から、同誌1329号(昭和19年7月)~1333号(昭和19年11月)に連載の論文「お玉ヶ池種痘所(其の1~5)」山崎佐著に導かれる。
其の2 1330号(昭和19年8)p.187に切絵図上の伊東玄朴家に印をつけた図が掲載されている。解説がないので、この切絵図の詳細は不明である。
其の3 1331号(昭和19年9月)p.203に万延元年に幕府直轄となり、「教授職及び治療医員として、伊東玄朴らを任命したことが記述されている。p.204に市民に接種を呼びかけた「種痘諭文」が掲載されており、下谷和泉橋通りの種痘所の手書きの地図がある。
其の5 1333号(昭和19年11月)p.257に慶応3年当時の教員・学生の氏名が掲載されている。
雑誌『日本歴史388号(1980年9月)』p.79-86に論文「お玉ヶ池種痘所開設をめぐって」深瀬泰旦著があり、人名などが記述されており、20件の参考文献が掲載されている。
2.医学館の組織・人事等について
資料5に「第5章医学館の章 第1節 沿革 甲 私学としての躋寿館、乙 官学としての医学館」、「第2節 考試」、「第3節 講書」、「第4節 出版検閲」、「第5節 施薬」、「第6節 罹災」、「7節 補助町屋敷」の項目があり、人事・組織についても記述されている。
雑誌論文では、
『中外医学新報 1197号』(昭和8年)p.279-291「医学館補遺」波多野賢一著 、『同誌1191号』(昭和8年)p.1-6 森潤三郎著の論文があり、医学館の関係者についての記述がある。
3.お玉ヶ池種痘所の地図上の位置について
資料6p54-55の間の口絵に、「お玉ヶ池種痘所の場所の図」(嘉永3年新刻、安政6年再販の尾張屋版切絵図)が掲載されている。
また「お玉ヶ池種痘所ができた川路聖謨の邸」(安政5年御府内沿革図書にもとづく)の図が掲載されている。
ほかに、和泉橋通(御徒町)に移った種痘所、別に向柳原に漢方の医学館が見えるという図が掲載されている。
また、「第2部 東京大学医学部のあゆみ 第17章医学部建物の百年のうつりかわり」があり、p.225-228に種痘所の建築についての具体的な記録は、残っていない旨が書かれている。
下谷和泉橋の種痘所は、資料7の「東都下谷絵図」1862年の図に種痘所の記載がある。
4.医学館の地図上の位置について
神田佐久間町の多紀安元の拝借地については、資料8p.65の明和2年(1765年)の絵図に、藤堂和泉守屋敷近くに、多紀安元拝借地との記載がある。
向柳原の医学館は、資料9p.87の尾張屋版嘉永6年の「浅草御蔵前辺図 全」にある。
5.建物の外観について
資料10『古版江戸図集成 別巻』p.102「医学館図」があり、診察所や薬圃がわかる図がのっている。