資料1,3の記述より吉原細見を調査し、内容を確認、紹介した。
資料1:p.525に「太鼓持」の項目があり、「遊興の座に同座して、興を添えることを職業とする者。類義語として幇間(ほうかん)・末社(まつしゃ)・男芸者がある。」等の解説がされている。出現期について、資料が引用され考証されており、その中に、「明和五、六年からは「吉原細見」に「吉原げいしゃ」の名前が載ることになる。」と記述され、「とまりふね」(明和6年秋)の内容が紹介されている。
資料2:『明和後期吉原細見4種』(覚書含め全5分冊)のうち、第2「とまりふね」(明和6年秋)に「吉原げいしゃの部」(24丁ウ)の見出しがあり、「十寸見らんじう」、「竹本浜太夫」、「野沢紋三」等の名前が20名ほど記載されている。
この他、第3「吉原細見目明千人」(明和7年春)のうち、「吉原げいしゃの部」(32丁オ,32丁ウ)及び、第4「黒仕立」(明和8年春)のうち、「吉原げいしゃの部」(23丁オ,23丁ウ)にも同様に、名前の一覧があり、「十寸見」、「野沢」、「竹本」、「富沢」、「荻江」、「むらまつ」等の名前があがっている。
資料3:第2部の16「男芸者と女芸者」の項目中にも、出現期について解説あり。宝暦(1751年~)以降、職業的な太鼓持が現れたとし、吉原細見に、「都一中の一派や、荻江、富本、常磐津、十寸見(ますみ)、竹本、野沢など江戸浄瑠璃の諸派の名取りがズラリと見られ、文化年度(一八〇四~)に入ると有名な桜川一派の名が見え始める。」との記述あり。
資料4:巻末の資料編に「「吉原細見」に見る男芸者」の論文あり。この中で、享保17年から享和元年に刊行された吉原細見について、活字に翻刻したものが掲載されている。資料2の明和期はp.290-293にあり。