レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年09月22日
- 登録日時
- 2016/10/04 13:37
- 更新日時
- 2016/10/07 16:50
- 管理番号
- 堺-2016-003
- 質問
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解決
中世、堺におかれていた会合衆がまちづくりに貢献したという逸話は存在するか。
- 回答
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会合衆は金銭的に力をもっていたため、祭礼等で重要な役割を果たした。また、戦国武将ともつながりがあったため、争いごとを調停するなど町の治安を守ることに貢献していた。会合衆が堺のまちに対して影響力をもっていた事例として、以下3例を紹介。(まちづくりに貢献したという逸話は未確認)
1 祭礼の頭人(とうにん)を勤めたことについて
文明16(1484)年8月1日、会合衆の三宅、和泉屋の2人が南荘の開口神社の祭礼頭人(※)を勤めた。また、文明18年(1486)年8月1日には同じく会合衆の池永が北荘の菅原神社の祭礼頭人を勤めた。(資料④ P45~46)
※頭人とは、祭祀を主宰する者のことで、資料⑦P10には「頭人の職掌は大きく二つに分けることができる。すなわち、司祭者としての職掌と、神事祭祀の準備等の舗設者としてのそれとである。」「中世の神事頭人に関する史料中にはその内容にまでふれた記述をほとんどみることができない」とある。ほとんどみることができない理由として頭人の役割が「神事の司祭よりも座衆への饗応が主」になっていったことを挙げている。
2 開口(あぐち)神社の賽銭(さいせん)知行権(ちぎょうけん)について
明応4(1495)年9月、住吉神社の津守氏は会合衆の池永氏から銭100貫文借用し、その担保として賽銭知行権を池永氏に与えた。池永氏が工面した100貫文の債権は後年念仏寺に寄進されたので、開口神社の賽銭知行権は念仏寺のものになった。
開口神社の賽銭知行権はもともと住吉神社が握っていたため、開口神社の神宮寺であった念仏寺と住吉神社で過去にも諍いがあった。この事件は領主が解決できなかった寺社同士の諍いを会合衆が金銭の力で解決した例として挙げられている。(資 料④P48~49、52)
3 三好長慶(ながよし)、細川氏綱(うじつな)の争いを調停したことについて
天文12(1543)年7月25日、細川家内で晴元と氏綱が跡目を争って対立した。天文15(1546)年8月16日、三好長慶は晴元の命を受け、堺へ出陣したが、用意が整わず、氏綱軍に包囲された。堺の会合衆36人の仲介によって事なきを得た。(資料①192、資料⑤P45~46、資料⑥ P7)
4 三好三人衆、松永久秀(ひさひで)の間を調停したことについて
永禄7(1564)年、三好長慶が亡くなると、家臣の松永久秀が実権を握った。松永久秀は長慶の養子である三好義継(よしつぐ)、三好三人衆(三好長禄(ながやす)、三好政康(まさやす)、岩城知道(ともみち)、いずれも三好家の家臣で長慶の死後力を持った。)と手を結び、永禄8(1565)年、将軍足利義輝を殺し、足利義栄を将軍にした。
その後、松永久秀と三好三人衆・義継は対立。堺に逃げ込んだ久秀を追って三好三人衆・義継らは堺の町を攻めた。
永禄9(1566)年、久秀は堺の会合衆36人衆の中で力を持っていた能登屋、臙脂屋(べにや)と友人であったため、2人に和睦を依頼、事なきを得た。(資料①P207、資料③P54、資料⑥P7)
5 織田信長の矢(や)銭(せん)(軍資金)を拒んだことについて
永禄11(1568)年、上洛した織田信長は軍資金として堺に2万貫の支払を要求した。
会合衆はこれを拒否。信長は、武力で威嚇をしたが、能登屋、臙脂屋等の会合衆は協力して櫓を築き、濠を深くして対抗した。
しかし、信長が大いに怒り、堺を攻めようとしたため、会合衆は信長に陳謝し、2万貫を支払った。(資料① P211、214、資料② P115~117)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 資料①『堺市史』巻2 堺市役所(1930年)
- 資料②『むかしの堺』正編 別所やそじ/著 堺児童文化振興会(1976年)
- 資料③『むかしの堺』続編 別所やそじ/著 堺児童文化振興会(1979年)
- 資料④「室町後期・戦国期における堺の都市構造」藤本誉博/著(『ヒストリア』第220号所収)大阪歴史学会(2010年)
- 資料⑤『三好長慶』天野忠幸/著 ミネルヴァ書房(2014年)
- 資料⑥「堺中世の会合と自治」吉田豊/著(『堺市博物館報』第17号所収)堺市博物館(1998年)
- 資料⑦「中世宮座の形成と自治」吉田豊/著(『堺市博物館館報』第3号所収)堺市博物館(1984年)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000197755