レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2001年07月01日
- 登録日時
- 2006/09/01 14:04
- 更新日時
- 2006/09/01 14:08
- 管理番号
- 堺―2006-002
- 質問
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解決
室町時代の一時期に、「堺幕府」というのが成立したらしいが、そのことについて知りたい。
- 回答
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応仁の乱が収束した後の明応2年(1493)、10代将軍足利義稙(よしたね)は、みずから畠山氏の家督をめぐる争いに決着をつけるために河内へ出陣したが、政変により失敗した。政変により管領細川政元が権力をにぎったが、彼の家督をめぐって、細川澄元と高国の間で争いがおこる。澄元の死後、その子晴元(はるもと)は大永7年(1527)、高国方を破り、晴元方で阿波の国人の三好元長(もとなが)は、足利義稙の養子となっていた義維(よしつな)を擁して、堺へわたった。義維は次期将軍として朝廷への進物をすませ、これ以降「堺公方(くぼう)」「堺大樹(たいじゅ)」(大樹は将軍のことをいう)」とよばれる。
こうして堺にひとつの権力が確立した。足利義維、細川晴元、そして三好元長によって構成される権力である。彼らが滞在する堺の顕本寺(けんぽんじ)が政権の本拠となった。将軍と管領が京都にいないという状況のなかで、堺の公方は事実上の将軍とうけとめられていたのである。この政権を「堺幕府」と呼ぶのは日本中世史研究者の今谷明氏による仮説である。
この「堺幕府」は、享禄5年(1532)に一向門徒十万の大軍が、顕本寺の三好元長を包囲し自刃させて滅亡するまで、5年余りにわたり存続した。
- 回答プロセス
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『堺市史』第7巻(別巻)「細川晴元」の項目(p.30)では「(大永7年)3月長基は足利義維及び晴元を擁して堺に抵り、政所を開いて之に居らしめた。」との記述あり。
今谷明『室町幕府解体過程の研究』の「第4章 細川・三好体制研究序説」に「『堺幕府』の成立と崩壊」(p.397~409)の項目あり。また、今谷『戦国三好一族』に「第3章 堺幕府、畿内を支配す」(p.61~76)として詳述されている。
さらに、今谷『戦国期の室町幕府』(1975年刊を2006年文庫化)においても、「『堺幕府』の成立と崩壊」の項目があり(文庫 p.230~251)、ここでは「足利義維の堺政権を『堺幕府』と呼ぶのは筆者のいささか大胆な仮説にすぎないが、戦国時代の室町幕府が、管領=細川京兆家と密接不可分な関係にあり、幕府奉公人奉書と管領代奉書が両々あいまって支配文書としての効果を発揮していたことを考慮するならば、高国が畿外諸国を転々と流寓し、義晴ひとり朽木谷に避難し、管領代奉書が一通も発給されていない亡命政権を“幕府”ということはできない。」(p.248)と述べている。
なお、『大阪府の歴史』では、「堺幕府」の呼称は使われていないが、「堺の公方」の項目があり(p.129~132)、その成立の経過について比較的わかりやすい記述がされており、上記回答文は主にこれに拠った。
- 事前調査事項
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『堺歴史散歩』p.29 「堺政所」の記述あり。
- NDC
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- 近畿地方 (216 8版)
- 参考資料
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- 徳永真一郎『堺歴史散歩』(創元社,1971年)
- 『堺市史』第7巻別巻(堺市役所,1930年)
- 今谷明『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店,1985年)
- 今谷明『戦国三好一族』(新人物往来社,1985年)
- 今谷明『戦国期の室町幕府』(講談社学術文庫,2006年)
- 藤本篤ほか『大阪府の歴史』(山川出版社,1996年)
- キーワード
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- 戦国時代
- 室町幕府
- 足利義維
- 細川晴元
- 三好元長
- 一向一揆
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000030263