維新前に水戸藩内で1万石の家禄があったのに、明治になって何故に華族(男爵)となっていないのか。岡田藩主伊東家より山野辺家に嫁いだ娘がいることを知って興味を持ったとのことであった。『<華族爵位>請願人名辞典』(松田敬之著、吉川弘文館、2015年)のP.767~769「山野辺義礼」「山野辺某」の項目に、そのあたりの事情を記した解説がある。天狗党の乱にまきこまれて家名断絶(後に赦免)となったことが影響して、当時華族としての体面を維持するだけの財本を確立できなかったということがあげられれている。ちなみに、フリー百科事典『ウィキペディア』の「山野辺義芸」の欄に、「正室:美奈(伊東長裕の娘)」とある。実際には、岡田藩八代藩主伊東長寛の第二番目の嫡子長之(これも後に病弱により廃嫡)の娘になる。九代長裕は、八代長裕の第一番目の嫡子長禎(相続前病没)の嫡子になり、八代長寛の孫ということになる。つまり、従兄の養女として藩主の娘(一門の娘ではなく)という格式で陪臣になる山野辺義芸へ嫁いだようである。ちなみに山野辺家は、テレビでおなじみの水戸黄門に登場する国家老の家になり、最上義光の末裔になるといえばわかりやすい。以上、渡邉隆男「記録に残る岡田藩主伊東氏十代」(『高梁川』72号、高梁川流域連盟、平成26年)参照。