レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年03月03日
- 登録日時
- 2012/02/23 16:08
- 更新日時
- 2012/12/26 11:07
- 管理番号
- 新県図-01192
- 質問
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解決
「上越新幹線」の名称の由来と、決定時に候補にあがった名称があれば知りたい。
- 回答
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結論から言いますと、当館所蔵資料から明確にわかる資料は見つけられませんでした。
調査過程において明らかになったことは、以下のとおりです。
上越新幹線という名称は先行する東海道新幹線・山陽新幹線や同時期開通の東北新幹線と同様、在来線の名称に由来すると思われますが、これに関する資料を見つけることができませんでした。
ちなみに、『新幹線』(海老原浩一/著 日本交通公社出版事業局 1984)p18~19に、東海道新幹線ができた経緯が出ています。
「東海道線の行きづまりに対処するために、国鉄は昭和31年5月、部内に「東海道線増強調査会」を設け、1年余りの審議を行った。その結果、東海道線は全線複々線化が必要で、その方法としては[中略]運輸省に設けられた日本国有鉄道幹線調査会は、昭和33年(1958)7月7日東海道線の増設新線は広軌別線案が妥当とし、工期は5年、東京・大阪間は3時間運転とすることを政府に答申した。」
このように東海道新幹線は東海道線の増設新線ということでスタートしました。山陽新幹線も同書p26に、
「昭和40年9月、山陽新幹線も東海道新幹線の場合と同様に、線路増設(複々線化)という形で、まず大阪・岡山間の工事が大臣認可となり、41年5月、ルートを決定。」とあります。
これに対して東北新幹線・上越新幹線は昭和45年5月18日法律第71号「全国新幹線鉄道整備法」に基づいての建設です。この法律に基づく第一次の基本計画として東京~盛岡、東京~新潟、東京~成田間の各新幹線鉄道の路線としたい旨、昭和46年1月13日に鉄道建設審議会に諮問・答申され決定しました。
『新潟日報』昭和46年1月14日p1には「上越新幹線など建設が確定 鉄道建設審が答申」という見出しがあり、ほかの新聞も見出しこそ違え、同内容の報道がなされています。
この時点で上越新幹線という名称が正式なものとしてスタートした訳ですが、これ以前の新聞の見出しにも「上越新幹線」という名称は出ています。検討記録等がないためはっきりしたことはわかりませんが、いつの間にか「上越新幹線」という名称が定まった可能性はあります。
『朝日新聞』『日本経済新聞』については過去の新聞記事が、それぞれのデータベースで調べられますので、関連記事を遡ってみたところ、『朝日新聞』昭和43年8月27日p14「全国に5本の幹線網 鉄道建設公団が構想発表」の中に「東京-新潟間を結ぶ路線として、関越新幹線が二百九十キロ」とありました。検討途中では、こうした名称も考えられていたのかもしれません。
なお、上越新幹線は大宮~新潟間の路線ですが、実質距離数269.5キロとは異なる営業距離数で運賃計算がされています。すなわち大宮~高崎間74.7キロは高崎線、高崎~宮内間162.6キロは上越線、宮内~新潟間66.3キロは信越本線の距離数による計303.6キロです[『鉄道要覧』電気車研究会 ほかによる]。
東海道新幹線・山陽新幹線の場合、在来線の線路増設ということで、在来線の名称に「新幹線」をつけ路線名としたことがわかります。基となる法律は異なりますが、上越新幹線もこの名付け方を踏襲したと思われます。ただし、上越新幹線は3線にまたがりますが、最も長い上越線の名称より「上越新幹線」としたと推測されます。ちなみに「上越線」は、旧国名をつないだ路線名です(『線路を楽しむ鉄道学』今尾恵介/著 講談社 2009 p153より)。この路線への敷設希望は早くからあり、明治20年(1887)東京に上越鉄道会社設立事務所が開設、ルートの調査をおこなっています。明治25年6月20日法律第4号「鉄道敷設法」に予定路線中の「北越線」は”新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋若ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及新発田ニ至ル鉄道”とそのルートの一つとして出ています。さまざまな活動の後、明治33年には上越鉄道の本免状が下付されました[『上越鉄道敷設に賭けた岡村貢の生涯』細矢菊治/著・発行 1987]。このように当初から上越という名前が用いられました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 鉄道運輸 (686 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 上越新幹線
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000102160