市史、大阪工業技術試験所の年史、教育大及び付属池田小中学校の記念誌等をあたりましたが、詳しく書かれているものはありませんでした。
特に、陸軍造兵廠(現教育大附属小・中・高校)の土地に関しましては、市史編纂室にも問い合わせましたが、資料は残っていないようです。
昭和14-15年、お問い合わせの土地に大阪工業試験所が、東の隣接地に陸軍軍需工場が建設され、昭和28年、その軍需工場の跡地に教育大学附属池田小学校が建設されました。 下記資料にもありますように、それ以前の土地利用については資料がみあたりません。
工業試験所の年史にありますように、<民有地>であったということ以外不明です。 ただ、1936.8国土地理院発行の『地形図 大阪西北部 昭和7年測量』(1/50000)を見ますと、その辺り一帯は畑のように見えますが、小さすぎて定かではありません。
また、『池田市土地寶典』大日本帝国市町村地図刊行会 1939年 には、2つの土地のところが、住宅地ではないことが伺えます。(空白になっています)
以下、記載のあるもの(抜粋)
① 『新修池田市史3 近代編』 第3章第2節 p632-633<大阪工業試験所>の項に、次のような記述があります。
「日中戦争の拡大とともに、軍需資材の供給確保、生活不足物資の補充、代用資源の研究が最重点課題となり、軍需物資や多くの代用品の研究が行われた。さらに軍の要請もあって光学ガラスの製造を拡大することになった。そのため新たな研究室と製造試験工場が必要となり、池田市にそれらを建設することになった。(出典:『大阪工業技術研究所八十年史』)・・・略・・・昭和十四年(1939)から十五年にかけて、池田師範学校の東、能勢街道北側の才田・尊八に焼く5000坪の広大な敷地を確保して建設した。 大阪工業試験所池田分所は、特殊ガラスの研究工場として昭和十六年に開所した。・・・略・・・この池田分所の開設に合わせて、東隣の下渋谷に陸軍造兵廠の光学ガラス製造工場が新設された。(現大阪教育大学附属池田中学・高校所在地)。池田分所の研究と連携して光学兵器を製造する軍需工場であった。この工場は東京第二陸軍造兵廠大宮製造所池田工場と呼ばれた。」
② 『大阪工業技術研究所八十年史』
沿革p2 には、
「・・・昭和13年 ~14年になると日華事変に始まり戦時拡大の影響で、軍需資材の供給確保、国民生活不足物資の補充、代用資源の研究が国策上重点課題となり、軍需物資や多くの代用品の研究が行われた。昭和13年頃から軍の要請もあり、光学ガラスの製造を拡大することになり、研究室と製造試験工場が、現在当所が所在する池田市(当時池田町)に建設(昭和14年~昭和15年)され、池田分所(第6部)として昭和16年に開所した。」
p4には
「・・・昭和16年に設けられた池田分所での製造の研究とともに、同時に隣接して建設された陸軍工廠での工学ガラス生産を指導した。第二次世界大戦中は海軍用光学ガラス生鮮の一部を担当するとともに民間でも溶融できるように指導した。大戦の終わりまでに当所で完成した光学ガラスは45種に及んだ。」とあります。
③ 『大阪工業技術試験所五十年史』 の<沿革および現状の3予算と施設>土地と建物の変遷の項p45に、池田分所の年度別土地利用の一覧があり、昭和14年度に「大蔵省において民有地購入 5,122坪」とあります。
※ 『わが校八十年の歩み』(大阪教育大学教育学部附属池田小学校記念誌) p28-下渋谷時代 (1)下渋谷時代の概要(下渋谷校舎への移転)」の項には、 「・・・ここは旧軍用工場の跡地で、当時は草がぼうぼうと生い茂るにまかせた荒涼たる原野で、狐が棲むとさえ言われていたほどである。現在の緑丘団地一帯も、当時は畑あり、池あり、それに墓地ありといった状況で、都市化された今の様子からは、およそ想像もつかない淋しい山里の一隅といった環境である。この原野に足を踏み入れ、地鎮祭が行われたのは、昭和28年1月25日のことであった。」と、設立の頃の記述しかみあたりませんでした