レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年10月11日
- 登録日時
- 2016/01/27 15:01
- 更新日時
- 2016/05/10 16:33
- 管理番号
- 埼熊-2015-150
- 質問
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解決
杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)から、旧忍川に流れていたルートと、今流れている忍川の流れに変えた理由が知りたい。
- 回答
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杣殿分水堰から、旧忍川に流れていたルートについて以下の資料に記述があった。
『町村合併記念 忍町全図』(1937)
昭和11年の地図。杣殿分水堰から、旧忍川に到る部分が描かれている。
『行田の町なみと学校史 目でみる行田史 2』(大沢俊吉著 行田市 1975)
p127、128に大正5年6月に印刷された忍町行田の足袋生産地地図に、忍川と思われる川あり。『町村合併記念 忍町全図』の部分と川の形態が酷似している。
忍川の流れに変えた理由については以下の資料に記述があった。
『新編埼玉県史 通史編 6 近代2』(埼玉県 1989)
p508「元荒川流域は元荒川の平水量が元来少なく、そのために用水が不足する一方、下星川・野通川・星川・忍川などの支流の水位が低く、河身の屈曲がはなはだしく、これらが連結する見沼代用水は水位が高く、流量も多いこともあって、流域全体にわたり、湛水地が多く、大正六年ごろは、湛水面積は2300町歩におよんだという。(後略)」
『新編埼玉県史 資料編22 近代・現代4』(埼玉県 1986)
p197 「二九 埼玉県用排水改良事業概況 昭和16年1月」「三、元荒川筋用排水改良事業計画概要」あり。
前掲「通史編6」p508の記述の典拠と思われる。
『元荒川支派川改修概要』(元荒川支派川普通水利組合編 1937[複製])
まえがきの「元荒川支派川改修記念碑」の言葉に、「本川ハ平水量豊カナラス且幹川支流何れも水路不整河積狭小ナルモノ多ク加フルニ水路ヲ横断スル堰堤及堰枠ノ構造極メテ不完全ニシテ流水ヲ阻害シ為ニ旱■[ロウ](さんずい に旧字の労:カンロウ:日照りと大雨)共に苦ミ挿秧穫禾ニ難ムコト久シ茲ニ於イテ本縣是レカ用排水路並構造物ヲ改修シテ禍根ヲ勦絶シ以テ千歳ノ福利ヲ興サントシ大正八年工ヲ起ス偶大正十二年國庫補助ノ途開カレ工程益進ミ昭和十二年遂ニ竣功ス」
p4「三 支川流路ノ付替」に忍川の記述あり。「忍川ハ上忍川及下忍川ノ合流点ヨリ新ニ新忍川ヲ開鑿シ清水落ノ一部ヲ利用シ元荒川ニ連絡合流セシム」p7「長野落ハ忍川ヲ伏越シテ何レモ野通川ニ放流シ(略)」p8「新忍川 熊谷市上之(はこがまえに品)杣 殿堰‥」
- 回答プロセス
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1 現在の忍川を地図で確認する。
『埼玉県行田土木事務所河川図』(行田土木事務所 1995)
「杣殿堰」「旧忍川」あり。平成7年の地図。
2 行田市史関係資料を確認する。
『町村合併記念 忍町全図』(回答資料)
『行田の町なみと学校史 目でみる行田史 2』(回答資料)
3 『埼玉大百科事典 1』(埼玉新聞社 1974)を〈忍川〉で確認する。
p314「おしかわ 忍川 元荒川の一支流。(中略)新忍川とも言う。かつては、行田市街の南を流れ市内佐間地内にて、市街北方からの水流を合わせ、忍川として見沼代用水路に合流していたが、大正から昭和初期にかけての県営元荒川筋用排水改良事業によって、行田市小敷田地内より、市街北側まで新水路が開削されると共に、市内佐間地内のかつての合流点から、元荒川までの新水路が開削され、現在の流路となった。」
4 荒川関連資料、埼玉県史関係資料を確認する。
『元荒川支派川改修概要』(回答資料)
『新編埼玉県史 通史編 6 近代2』(回答資料)
『新編埼玉県史 資料編22 近代・現代4』(回答資料)
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
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- 『町村合併記念 忍町全図』(1937)
- 『行田の町なみと学校史 目でみる行田史 2』(大沢俊吉著 行田市 1975)
- 『新編埼玉県史 通史編 6 近代2』(埼玉県 1989)
- 『新編埼玉県史 資料編22 近代・現代4』(埼玉県 1986)
- 『元荒川支派川改修概要』(元荒川支派川普通水利組合編 1937[複製])
- キーワード
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- 杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)
- 旧忍川
- 行田市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187579