レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年04月15日
- 登録日時
- 2016/01/21 17:09
- 更新日時
- 2016/03/11 15:00
- 管理番号
- 埼熊-2015-095
- 質問
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解決
元寇・文永の役(1274年)で大陸から持ち込まれた武器を知りたい。
以下のようなものがあったと見聞きしたことがある。
・火薬をつかったロケット花火(脅かす用途、殺傷能力なし)
・投石器(石で撃たれたという記述を見たことがある。西洋の投石器のようなものか)
・ヘルメット
- 回答
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火薬をつかった「てつはう」(鉄砲)、「石弓」(投石器)を含む武器について記述がある資料を紹介した。
『蒙古襲来 教育社歴史新書 日本史』(阿部征寛著 教育社 1989)
p89「武器としては、火薬を先端に装備した火箭、毒矢、弓、石弓(投石器)、太鼓、投槍などが使用された。」
「こうした武器のうちで最も驚くべきものは「鉄砲」である。『絵詞』では「てつはう」とある。空中で爆発し、破片を飛散させているのがそうである。(後略)」
『蒙古襲来 その軍事史的研究』(太田弘毅著 錦正社 1997)
p28-29 武器の「矢」と「てつぱう」について記述あり。「てつぱう」は「主要武器とは言えず、あくまでも特殊武器として、日本軍将兵の心肝を寒からしめた程度にとどまったと言えよう。」とあり。主力は「矢」であった旨の記述あり。
p318-342「蒙古襲来時、元軍使用の矢について」に「矢」や「石弓」(投石器)等について記述あり。
太田弘毅著「蒙古軍の戦法・武器」(『歴史と旅 2001年2月号 28-2』p66-69 秋田書店 2001.2)
p68「武器でも日本に見られないものが、元上陸軍には存在した。(中略)短弓・短矢で、連射・速射も可能であり、肉迫戦闘にも手ごろである。弓の根には猛毒が塗ってあるので、少しでも身体に当るとその毒気にまけてしまう。」
「また、「てつはう」というものをも持っていた。『蒙古襲来絵詞』には「てつはう」と平仮名で記し、爆発して空中飛び散る絵も掲げられている。」
「「てつはう」は、今日の鉄砲とは違っていて、爆弾か手榴弾のようなもので、炸裂火器の一種と見なしてよい。丸い容器に黒色火薬を充填する。」
「弘安の役では、(中略)。また、接近中に発見され、元の艦船から放つ「石弓」―ばねで石を発射―で、日本側に多くの犠牲者が出たという(『八幡愚童訓』)。因みに戦場となった鷹島(長崎県北松浦郡鷹島町)沖からは、丸い石弾が引き揚げられている。」
『元寇と南北朝の動乱』(小林一岳著 吉川弘文館 2009)
p32「「てつほう」は、火薬を使った武器で、鉄の半球を二つ合わせて中に火薬を仕込んだもので、投擲器を使って敵陣に投げ込み威嚇する兵器であった。」とあり。
『蒙古襲来 対外戦争の社会史』(海津一朗著 吉川弘文館 1998)
p4「『蒙古襲来絵詞』文永の蒙古襲来を描いた場面―手投げ火器・長槍や短弓など新兵器を駆使して、(後略)」とあり。
『蒙古襲来研究史論 中世史選書 1』(川添昭二著 雄山閣出版 1977)
p240-241 蒙古軍の鉄砲について、大正時代の石田幹之助、戦後の荒川秀俊、吉田光邦各氏の論文における意見が述べられている。「石田は、「鉄砲」に関する先行諸説をこまかく検討して、その投擲を人力に帰し、「鉄砲」を焼夷剤の一種とみている。(後略)」等。
- 回答プロセス
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参考図書を〈元寇〉で調査した後、自館目録を〈蒙古襲来〉〈元寇 & 武器〉で検索した結果、ヒットした資料を調査した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 兵器.軍事工学 (559 9版)
- 参考資料
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- 『蒙古襲来 教育社歴史新書 日本史』(阿部征寛著 教育社 1989)
- 『蒙古襲来 その軍事史的研究』(太田弘毅著 錦正社 1997) , ISBN 4-7646-0308-X
- 『元寇と南北朝の動乱』(小林一岳著 吉川弘文館 2009) , ISBN 978-4-642-06404-0
- 『蒙古襲来 対外戦争の社会史』(海津一朗著 吉川弘文館 1998) , ISBN 4-642-05432-4
- 『蒙古襲来研究史論 中世史選書 1』(川添昭二著 雄山閣出版 1977)
- キーワード
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- 元寇
- 日本-歴史-鎌倉時代
- 武器
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187318