レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年6月29日
- 登録日時
- 2011/11/24 19:13
- 更新日時
- 2012/05/31 18:02
- 管理番号
- 埼浦-2011-121
- 質問
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解決
埼玉県の私市(騎西)・加須地方に、猪俣氏或いはその一族が居住した形跡はあるのか知りたい。
- 回答
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下記の資料から、猪股氏が加須に居住した形跡についての伝承があることが確認できた。私市(騎西)については、確認できなかった。
『調査報告書 3 加須市の地名』
p26「油井ヶ島村(ゆいがしまむら) 油井ヶ島という地名は、武蔵七党の旗頭、猪俣小平六が鎌倉の由比ヶ浜から正八幡神社を勧請したところより、起こったといわれている。」とあり。
『加須市の郷土史』
p36「猪俣党 猪股小平六範綱は、一の谷の戦いに平家方の武将である越中前司盛俊を討取って高名を挙げた。(略)範綱は、武蔵七党の旗頭としてあまりにも有名であるが、彼は鎌倉由比ヶ浜から、この地の海上郷山根庄といわれた人跡未踏の荒地に正八幡社を勧請したので、油井ヶ島の名が起こった。彼はこの加須市水深地区の油井島の地を、児玉郡にある猪俣の分国として治め、子孫が世々この地を居館(油井ヶ島、鐘撞山)とし、荒地 開墾を進め勢力を張ったという。」とあり。
p41「油井ヵ島、神宮寺の山門にあり、市指定文化財である。(略)武蔵七党の旗頭として有名な猪俣小平六の子孫が世々この地を居城としたとあるゆかりの地。」(青石塔婆の写真の説明)とあり。
『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』
p880「ゆいがしま 油井ヶ島〈加須市〉」
「県北東部、新川用水右岸南方に位置する。地名の由来は、武蔵七党猪俣党の猪俣小平六則綱が、鎌倉の由比ヶ浜から八幡神を当地へ勧請したことによる(市史編纂室資料)。 当地には猪俣則綱およびその子孫の居城と伝える油井城址(鐘撞かねつき山)がある。」とあり。
『中世北武蔵の城 城郭資料集成』
p200「油井城跡(鐘撞山)」
「『新編武蔵風土記稿』には「相伝ふ猪股小平六則綱が城跡ト云。鐘撞山と呼ぶ。今は山もなく陸田となりて、城蹟のさまは見えず」云々とあり、猪股氏の末裔が住したものと推定している城郭である。」とあり。
- 回答プロセス
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自館資料を「加須」、「騎西」、「猪俣氏」「猪俣党」及び中世城館を対象に調査した。
調査済み資料
『騎西町史 通史編』(騎西町教育委員会 2005)
『騎西町史 中世資料編』(騎西町教育委員会 1990)
『武蔵武士の研究 湯山学中世史論集 3』(岩田書院 2010)
『北条氏邦と猪俣邦憲 論集戦国大名と国衆 3』(岩田書院 2010)
『中世武蔵武士館跡の研究 3 -猪俣党猪俣氏について-』(埼玉県立浦和第一女子高等学校郷土研究部 1982)
『埼玉叢書 4』(国書刊行会 1971)
p10-p14 「「猪俣黨(平姓)」
猪俣氏の系図があるが、私市や加須に移住したとの記述はなかった。
『埼玉の中世城館跡』(埼玉県教育委員会1988)
p34「鐘撞山」
猪俣氏についての記述はなし。
- 事前調査事項
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「新編武蔵風土記稿」
「加須市史」
「調査報告書 1」
「調査報告書 9」
「埼玉の館城跡」
「日本城郭体系 5」
「中世城郭事典」
「埼玉の城址30選」
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『調査報告書 3 加須市の地名』(埼玉県加須市 1979)
- 『加須市の郷土史』(埼玉県加須市 1969)
- 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店 1980)
- 『中世北武蔵の城 城郭資料集成』(梅沢太久夫著 岩田書院 2003)
- キーワード
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- 猪俣氏
- 油井城址(ユイジョウシ)
- 加須市-中世-歴史
- 鐘撞山(カネツキヤマ)
- 油井ヶ島村(ユイガシマムラ)
- 猪俣 範綱(イノマタ ノリツナ)
- 猪俣 則綱(イノマタ ノリツナ)
- 猪俣 小平六(イノマタ コヘイロク)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097135