レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/5/28
- 登録日時
- 2020/07/15 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:33
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000830
- 質問
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解決
【「義経記」で義経一行が上陸した大野湊の位置について】 「義経記」で義経一行が大野湊に上陸し、粟崎に向かうとの記述がある。
義経の時代の大野湊はどこにあったのか。
また、金沢リンクスゴルフ場が該当すると聞いて、尋ねてみたところ埋め立て地と教えられた。どのあたりまでが埋め立て地なのか。
- 回答
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・『地図で見る金沢の変遷』(118365873)で、平成6年頃、明治42年頃の地図を確認。
金沢リンクスゴルフ場のほとんどが埋め立て地であることが確認できる。
・加越能文庫所蔵「加越能三州細密図」(近世史料館所蔵史料データベースでイメージ画像を閲覧可能)
天保時代の海岸線が確認できる。
・『海の道と川の道・補遺』(119656946)p63
大野湊は大野川河口の湊で、中世から名が残る。大野川は勾配が緩く、海岸は砂丘のため砂が河口付近に滞積すると流路の変化が大きかったと記載あり。
・『大野町史』(119810901)p43
中世の文献に「大野荘湊」の名称が複数登場することが記載されている。
中世の港津は、河川の河口から少し遡った地点にあることが多いことから、大野の集落は、大野川に臨んだ位置で営まれたこと。
日本海沿岸の集落のほとんどは、河口右岸に発達したことの記載あり。
・『金石町誌』(11801960)
p13金石・大野は石川砂丘に与れる集落で、海岸は著しく波浪のために侵食せらる。
p23 大野川下流を新川という。
p203 貞観13年(871)渤海使着岸地が大野湊であったと記載あり。
・『ビジュアル内灘町史』(119792170)p163
内灘砂丘について、縄文時代より、海水面の変動はあったが海岸線の位置がほとんど変わっていないとの記載あり。海岸線の図あり。
・『石川県史 第4編』(118587405)p1057
元来大野町西南より海に注いでいた大野川を寛永3年(1626)東北に導き直流にしたこと、海砂が堆積したことなどの記載あり。
・『石川県史資料 近世篇19 加越能の風景図』(119927314)p15,114
江戸時代の海岸線が描かれた絵図。絵図面に海が遠浅で水底に岩石がないため、大船の通行が自由であったと記載あり。
何れの資料を見ても具体的な湊の場所は示してはいなかった。
・河北潟は、江戸時代から干拓が始まり、1960年代の大干拓事業で北部がほぼ埋め立てられた。
埋め立ての歴史については、『河北潟埋立の歴史』(128006566)『石川県河北潟の形成史と変貌』(119667476)などに記載あり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000284617