レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年05月25日
- 登録日時
- 2015/08/17 11:55
- 更新日時
- 2017/03/10 12:02
- 管理番号
- 長野市立長野-15-010
- 質問
-
未解決
長野刑務所より以前に長野監獄があったが、さらにそれより前に長野市箱清水に徒刑場があったらしい。
その場所が特定できる資料はないか。
- 回答
-
・明治四年 箱清水に民家を借り受け徒刑場を置く。
→懲役人が増えたので、善光寺大本願上人の旧隠居所の廃屋を利用して徒刑場に充て、三輪淀ケ橋に未決囚の「西の牢屋」
→明治五年 中野・松代の獄舎を三輪淀ケ橋に移し、長野監獄第二署を建築、未決囚に充てる
→明治六年 懲役人が増えたので、西長野(腰村 袖長野、盲塚付近)善光寺共同火葬場の位置に長野県監獄第一署を建築。
罪囚を移し箱清水の徒刑場を廃する。
ということまではわかりましたが、箱清水に徒刑場があった明治4~5年の地図を見つけることができなかったため、場所を特定することができませんでした。
- 回答プロセス
-
『図鑑 日本の監獄史』p63に長野県監獄署のについての記載があり。
「昭和七年の刑務所要覧(司法省編)によれば、「封建時代に在りては信濃国は十一藩に分れ、各藩に牢獄を設け、領内の罪囚を集禁していた。明治四年廃藩置県の際創めて市内箱清水の民家を借り受け徒刑場を置き、市隣接の三輪村字淀ケ橋に未決囚を勾留し、西の牢屋と称した。然るに漸次箱清水徒刑場の収容者増加し狭隘を告ぐるに及び、善光寺大本願上人の旧隠居所の廃屋を修理して、監房に改造し、徒刑場に充て西ノ牢屋を併せて共に徒刑場と称したのである」と記されており、(以下略)」
とある。
質問者の事前調査の通り、善光寺大本願上人の隠居所を利用したという点は一致するが、場所が定まらない。
『長野市誌 第5巻 歴史編 近代1』p85-87に、「警察・司法制度のはじまり」の項あり。p86-87にかけて牢屋、監獄についての記載がある。
「廃藩置県後、旧松代県・中野県の牢屋を移築して水内郡三輪村に設けられた獄舎には未決囚が入っていた。この獄舎には約六百七十人が在監し、常時二人の捕亡が看守していた。この未決監の牢屋は太い格子造りで、一段高い場所に作られていたので、あたかも動物園の檻のようであったという(『長野監獄沿革史』)。
同時期に、水内郡腰村(長野市)の獄舎には既決囚が拘禁されていた。懲役人の数が明治六年から七年にかけて増加して、獄舎や作業場がせまくなってきたので、長野県は敷地の拡張と獄舎・作業場の建て増しをおこなった。同七年の懲役人は男女合わせて二七一人で、逃亡者は一〇人にのぼった。」
とあり。
p87に警察署と囚獄(監獄)の位置図(明治12年「長野町全図」の一部)があるが、ここに載っている囚獄は、善光寺との位置関係を見ると三輪村の獄舎のようであり、箱清水ではない。
『長野県史 近代史料編 第4巻 軍事・警察・司法』p859-860に、「明治六年十月 懲役所囲込地買上等につき大蔵省宛長野県伺」あり。
文章を要約するに、懲役人が増えてきたので、水内郡腰村に懲役所建増地を買上げたいという趣旨の文書である。
また、p892-899に「昭和七年一月 長野刑務所等建物配置図並同沿革 (刑務所総覧 昭和七年一月現在)」あり。
p894に長野刑務所の沿革の記載あり。
『図鑑 日本の監獄史』に記載があったものと同じ内容で、続きが記載されていた。
「明治五年中野、松代等の獄舎を淀ケ橋に移し、庁舎、監房、炊場、死刑場、官舎等を建築し長野監獄第二署と改称し未決監に充て、西長野盲塚の善光寺共同火葬場を均し、庁舎監房、工場、炊場、女監を建築士、外に署員合宿所を設け、箱清水の徒刑場を廃し、罪囚を移し、長野県監獄第一署と改称した。(以下略)」とあり。
明治十四年、第一署は長野県監獄本署、第二署は長野県監獄署と称する
明治十七年一月 長野県監獄署を廃し、本署に合併して長野県監獄本署と改称
明治十九年 長野県監獄署と改称
明治三十六年 司法省管轄となり長野監獄と改称
大正十一年 長野刑務所と改称
p893の長野刑務所の住所は「長野市大字袖長野第四番地」になっている。
『長門町百周年記念誌』p379-380に、「総合庁舎街の前身長野刑務所」の項あり。
「標題の通り今の総合庁舎と東にある勤労者福祉センターの敷地は、それ以前長野刑務所のあったところであることは御承知の通り。(中略)前の刑務所は夫以前盲塚耕地寺東耕地と呼ばれ、「町村誌」によると九町五反ばかりの面積である場所で、はじめは勧業場(一部製糸?)が作られ其後に監獄が作られたものらしい。それは明治十五年頃で、はじめ懲役場と云ったのが監獄と変り、大正十一年に長野刑務所と改まったのであるが、(中略)更にそれ以前は囚獄という名前で、今の淀ヶ橋鐘鋳堰の左岸樋下いなりと新町(善光寺下通り)との間辺にあったらしい。(又新町通りの北横山に近いともいう)あの辺はかつての土揚場のあとで、未開の地であったので、そうしたものをおくには好適の地でもあったのであろう。」
とあり。
以上の資料から、
・明治四年 箱清水に民家を借り受け徒刑場を置く。
→懲役人が増えたので、善光寺大本願上人の旧隠居所の廃屋を利用して徒刑場に充て、三輪淀ケ橋に未決囚の「西の牢屋」
→明治五年 中野・松代の獄舎を三輪淀ケ橋に移し、長野監獄第二署を建築、未決囚に充てる
→明治六年 懲役人が増えたので、西長野(腰村 袖長野、盲塚付近)善光寺共同火葬場の位置に長野県監獄第一署を建築。
罪囚を移し箱清水の徒刑場を廃する。
となり、明治四年~五年の間しか箱清水には徒刑場がなかったということになる。
『明治初期 長野県町村絵地図大鑑 2 北信篇』
p135 腰村の地図、袖長野に懲役場と記載あり。明治十一年の地図なので長野県監獄第一署と思われる。
p132-133に善光寺門前町の地図があるが掲載の地図は安政二年(1855年)で、p359の解説によると「明治初期の絵地図は欠損している」とあり、箱清水の徒刑場について確認することができなかった。
- 事前調査事項
-
善光寺大本願上人の隠居所を使ったらしい。
- NDC
- 参考資料
-
- 『図鑑 日本の監獄史』重松 一義/著 雄山閣 1985.04 <326シ> (p63)
- 『長野市誌 第5巻 歴史編 近代1』長野市誌編さん委員会/編集 長野市 1997.01 <N213ナ5> (p86-87)
-
『長野県史 近代史料編 第4巻 軍事・警察・司法』長野県/編集 長野県史刊行会 1988 <N209ナ4>
(p859-860「明治六年十月 懲役所囲込地買上等につき大蔵省宛長野県伺」
p892-899「昭和七年一月 長野刑務所等建物配置図並同沿革 (刑務所総覧 昭和七年一月現在)」) - 『明治初期 長野県町村絵地図大鑑 2 北信篇』滝沢 主税/編 郷土出版社 1985 <N293メ2> (p135 腰村(解説p360))
- 『長門町百周年記念誌』長門町百周年記念誌/編集 1991.11 <N213ナ> (p379-380 総合庁舎街の前身長野刑務所)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000178474