レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/02/03
- 登録日時
- 2017/03/29 00:30
- 更新日時
- 2017/03/29 00:30
- 管理番号
- 6001022458
- 質問
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解決
大坂の陣で豊臣方で活躍した伊木遠雄について知りたい。
- 回答
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以下の資料に、伊木遠雄について記載がありました。
・『講談社日本人名大辞典』(上田正昭[ほか]/監修 講談社 2001.12)
p.115 「いき-とおかつ 【伊木遠雄】 (生没年不明) 織豊-江戸時代前期の武士。豊臣秀吉に近侍し、天正(てんしょう)11年(1583)賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで功をたてる。慶長5年(1600)関ケ原の戦いに敗れ、浪人。20年5月の大坂の陣にくわわり、戦死したとも行方不明になったともいわれる。通称は七郎右衛門。名は「とおたけ」「とおお」ともよむ。」
・『大日本人名辞書 第1巻 ア-カミヤ』(大日本人名辞書刊行会/[編] 講談社 1974.3)
p.159 「イキ トホタケ 伊木遠雄 勇力の士、曾て大阪の役眞田幸村に從て天王寺を守り東軍と戰ひて勇名を著はせり然れども衆寡敵せず戰ひ敗るるに及びて遁れて往く所を知らず(本朝武功正傳)」
・『戦国人名事典』(阿部猛/編 西村圭子/編 新人物往来社 1987.3)
p.73 「いきとおかつ 伊木遠雄 一五六七~一六一五(永禄十~元和元)
(半七・七郎衛門・常紀)豊臣秀吉の近習。天正十一年(一五八三)、十七歳で賤ヶ岳の合戦に従軍して功があった。のち黄母衣衆に属す。文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵に際して肥前国名護屋に在陣した。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後は浪人したが、同十九年、大坂城に入城、元和元年(一六一五)五月七日の落城前日に逃走、真野頼包と刺し違えて死去した。」
[事例作成日:平成29年2月28日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000213434