レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 埼玉県立久喜図書館 (2110009) | 管理番号 (Control number) | 埼熊-2016-059 | ||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2015年08月19日 | 登録日時 (Registration date) | 2016年10月20日 15時41分 | 更新日時 (Last update) | 2017年01月04日 15時44分 | ||||||
質問 (Question) | アヘン戦争(1840年)から日露戦争(1905年)の頃、ヨーロッパ諸国が中国(清)の権益を得ようとしていたが、中国の何にそれほど魅かれたのか知りたい。 | ||||||||||
回答 (Answer) | ヨーロッパ諸国から見た中国(清)の魅力について、記述のあった下記の資料を紹介した。 『中国史 新版世界各国史 3』(尾形勇[ほか]編 山川出版社 1998) p299-310 「4 清中期の隆盛-拡大と破綻」「ヨーロッパからみた中国」に「豊かな物産を生み出すエキゾチックな東方の大国としての中国の存在は、むろん古くからヨーロッパで知られていた。しかし物産や風俗への表面的な興味にとどまらず、中国の国家体制やそれを支える思想など、中国社会全体の仕組みについてヨーロッパ人が関心をもち、かつヨーロッパの体制との優劣という問題関心から中国を論ずるようになったのは、18世紀のことだといえよう。」として中国を礼讃したヴォルテールと批判したモンステキューの中国観が紹介されている。 『文明 西洋が覇権をとれた6つの真因』(ニーアル・ファーガソン著 仙名紀訳 勁草書房 2012) p53「1776年の時点でも、アダム・スミスは、中国はヨーロッパのどこと比べても豊かだし、土壌は肥えていて最も良く耕作され、国民は勤勉で人口も世界で最も稠密(ちょうみつ)だ、と記している。だがスミスは同時に、中国は長い期間、停滞したままだとも指摘している。その点は、正鵠を射ている。」とあり。「停滞する」前の中国(西洋から見た)についてもこの後に記述あり。 『近代中国政治外交史』(坂野正高著 東京大学出版会 1973) p255(「第3節アロー戦争」中」)「三億以上の人口をもっている中国の市場は、英国の工業製品に対して「無限」の需要をもっているという幻想がアヘン戦争前から英国の商工業者によっていだかれていた。ところがアヘン戦争後に、いわゆるインディアン・トレードが1834年から44年にかけてと同じ伸び率で増加したにもかかわらず、英本国の工業製品の中国に対する輸出は伸びず、戦争前の幻想は幻滅と変わった。にもかかわらず、中国市場の無限性の神話は依然として生きつづけ、制度的な障害をさらにたたき破れば貿易は伸びるだろうという考え方が強かった。具体的にいうと、条約港の数をふやせ、外国商人が条約港周辺をこえて内地に入れるようにせよ、内国関税をつぶせ、ということであった。その結果が条約改正要求ともなり、またアロー戦争ともなった。」 『清朝と近代世界』(吉澤誠一郎著 岩波書店 2010) p153-154「アヘン戦争の後、イギリスでは、中国市場に対する期待が高まっていた。イギリスの工業製品に対する巨大な需要があると思われたからである。これを正面から批判したのが、ミッチェル報告書である。」とあり、その内容について記述あり。 『近代国家への模索 1894-1925』(川島真著 岩波書店 2010) p1(「はじめに」中)(本書で扱うのが1894-1925年であることを述べた上で)「この時代の中国の象徴として、高校世界史の教科書にもあらわれる「眠れる獅子」という言葉がある。この言葉は、イギリスに駐在していた曾紀沢(そうきたく)公使(Marquis Tseng)が1887年にロンドンで発表した「中国-その眠りと覚醒」という文章に由来する(The Asiatic Quarterly Review,Vol.Ⅲ3,1887)。これは、従来の西洋における「眠れる中国」という否定的な表現に、獅子という大英帝国の表象を組み合わせ、中国に大国の表象を与えんとするものであった。その後、この「眠れる獅子」という言葉が否定的に捉えられることもあったが、獅子を清の国旗の模様になぞらえて、中国の象徴として描き出す傾向が、本書で扱う時代に多くみられるようになった。」 『図説 中国文明史 10(清) 文明の極地』(劉〔イ〕編 稲畑耕一郎監修 創元社 2006) p106-108「1 流入する外国銀貨」に「明代の後期から、中国には外国の銀貨が大量に流入するようになりました。その流れは清初に外国との貿易が再開されて以降、ますます大きなものになっていきます。(中略)そして、いったん中国に流れこんだこの巨額の銀をどのように国外に流出させるかが、列強諸国の関心事になっていきました。」 「中国の物産は非常に豊かで、それを外国に求めずともよかったため、清朝政府は施しをするつもりで貿易をおこなっていました。しかし中国の銀鉱は長く開発されつづけたために枯渇しはじめており、中国の民間の商人たちは他のどんな商品より、ひたすら自分たちの財産となる銀をもとめたのでした。」 「アヘンの密輸は18世紀の後半になって急上昇し、1820年代末から1830年代には、中国は銀の輸入国から輸出国に逆転してしまいました。」 p130-「5 港湾の強制租借-青島と威海衛」 「膠州湾は山東半島の南に位置し、北は旅順を望み、南は江蘇や浙江に通じています。湾内の航路は水深ふかく、水流は穏やかで潮位の上下も少なく、不凍港であり、半ば外界から閉じられた地理にあるという、天然の良港でした。ドイツは列強の中では後進に属する国で、イギリス・フランス・ロシアが東アジアにそれぞれ拠点となる基地を持っていることを見て、ドイツも中国に海軍基地を持とうとしたのです。」 p131「1898年、イギリスはロシアの南下を阻止するため、威海衛に対する25年の租借権を得て、海軍基地を置きました。」 p133-「6 港湾の強制租借-旅順と大連」 「旅順は1880年に軍港として開かれました。威海衛とともに、北洋海軍が20年近い時間をかけて建設した港です。(中略)大連湾、旅順港はその中でも地理的条件に恵まれた良港でした。日本・イギリス・ロシアなどの国がみなこの地への進出を狙い、最終的にはロシアが獲得しました。」 | ||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 中国史関係の資料を確認する。 NDC分類〈222.06〉の書架を調査する。 『中国の反外国主義とナショナリズム』(佐藤公彦著 集広舎 2015)該当する記述なし。 《BOOKPLUS》(日外アソシエーツ)を〈西洋から & 中国〉〈欧米から & 中国〉〈欧米から & 清〉で検索する。 『絵画に見る近代中国 西洋からの視線』(ウィリアム・シャング著 大修館書店 2001) 『近代中国政治外交史』(回答資料)の参考文献を確認する。 『東洋史と西洋史とのあいだ』(飯塚浩二著 岩波書店 1969)該当する記述なし。 《Googleブックス》( https://books.google.co.jp/ Google)を〈西洋からみた & 中国〉〈西洋から見た & 中国〉〈西洋から見た & 清〉等で検索する。 『文明 西洋が覇権をとれた6つの真因』(回答資料) インターネット、データベースの最終アクセス日は2015年8月19日。 | ||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||||
備考 (Notes) | |||||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 | 内容種別 (Type of subject) | 歴史 | 質問者区分 (Category of questioner) | 個人 | ||||||
登録番号 (Registration number) | 1000198508 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |