レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 沖縄県立図書館 (2110045) | 管理番号 (Control number) | 1000000872 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
事例作成日 (Creation date) | 2016/09/07 | 登録日時 (Registration date) | 2016年09月08日 00時30分 | 更新日時 (Last update) | 2016年09月08日 00時30分 | |||||
質問 (Question) | 多良間島から首里王府への、紅花の貢納について知りたい。 | |||||||||
回答 (Answer) | 下記の資料に記述がある。 ① 『朝鮮王朝実録琉球史料集成 訳注篇』池谷/望子 [ほか] 編・訳、榕樹書林、2005.5) p317-319 「燕山君三年(弘治十年・一四九七)十月壬午(十四日)」の項目で、p317 「所居の処を問うに、十人答えて云わく「禰也求他羅麻時麻なり」。倭語に、島を謂いて時麻と為す。此の国は琉球国に属す。…仍お質問せしむれば則ち答えて云わく「我が島は紅花多く産し、因りて琉球に輪貢す。回還の時、風に値いて漂流す」。」の記述がある。 ② 『多良間村史 第1巻』(多良間村史編集委員会 編、多良間村、2000.3) p54-57 「五、多良間人の漂流(多良間関係遭難)」で、p55-56 燕山君日記の日本語訳がある。 p56 「この漂流記で頷けることは、当時、紅花が大量に生産されていたということであり、「タラマバナ」といわれるのもその頃に端を発したのかもしれない。」の記述がある。 ③ 『沖縄県教育庁文化課紀要 第6号』(沖縄県教育庁文化課 編、沖縄教育委員会、1990.3) p1-7 「朝鮮国王李書翰について 糸数兼治」の論文で、p4-5 「さて次に丁巳(一四九七)朝鮮国に漂着したという琉球人はいかなる人々だったのかということに興味をそそられるが、これについては『李朝実録』に詳しい記録が残されているのである。「燕山君日記」三年(一四九七)十月の条に…これによれば李書翰本文中「南鄙」とあるのは済州島のことであり、漂流民は宮古多良間島民であったこと、済州島来泊の理由は紅花を積んで琉球に向かう途中漂流したこと等が判明する。」の記述がある。 ④ 『沖縄県多良間島における伝統的社会システムの実態と変容に関する総合的研究』(高良 倉吉 [編]、琉球大学法文学部、2000.3) p107-109 「問題提起5.渡久山春好」で、p108 「一方、朝鮮済州島民の漂流から、およそ20年後の1497年に多良間の人が十人で琉球(沖縄)に紅花をもって貢納にいった帰りに漂流したという記録があります。…なぜ、宮古をとおりこして、琉球に貢納にいったのか、当時、宮古の勢力下にはなかったのか、それが、疑問として残されております。」の記述がある。 参考: ⑤ 『多良間村史 第2巻資料編1』(多良間村史編集委員会 編、多良間村、1986.3) p399-446 「(四)「多良間往復文書控」 三」で、p439 「109 紅花種子の送状(明治二十年六月四日) 送状 紅花種子一升 右塩川村杣山筆者平良幸合へ相渡差登申候也」の記述がある。 | |||||||||
回答プロセス (Answering process) | ||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||||
NDC |
| |||||||||
参考資料 (Reference materials) |
| |||||||||
キーワード (Keywords) |
| |||||||||
照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||||
備考 (Notes) | ||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||||
登録番号 (Registration number) | 1000196694 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |