日本がハワイの真珠湾を襲撃し、太平洋戦争が勃発してからちょうど4年後の1945年(昭和20年)12月7日、アメリカ政府は「日本からの賠償即時実施計画」(対日賠償を担当したポーレー(Edwin W. Pauley)の名をとって一般に「ポーレー中間報告」と呼ばれる)を公表しました。この報告書は、日本産業の非軍事化の徹底などと並んで、空襲を逃れた軍需工場で民需工場に転換した重工業施設のうち、平和的な経済活動を維持するために最低必要な水準を上回る余剰施設を賠償に振り向けるよう指摘し、具体的には、全ての航空機工場・陸海軍工廠の撤去などを求めていました。これを受けてGHQは、1946年(昭和21年)1月20日に日本の航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に関する覚書(SCAPIN629)を発し、これら389工場を賠償予定物件として指定しました。この覚書により、中島飛行機や日立製作所などの航空機工場がGHQの管理下に置かれ、日本国内での飛行機製造は中断されました。
第1回外交記録公開で公開された外務省記録「連合軍司令部来信綴」には、日本の航空機工場の管理などを定めた前記GHQの覚書及びその対象とされた工場などのリストが含まれています。