佐分利貞男(さぶり・さだお)は、1879年(明治12年)に東京で生まれ、1905年に東京帝国大学を卒業後、外務省に入省しました。フランスやアメリカに在勤し、パリ講和会議(1919年(大正8年))やワシントン会議(1921-22年)にも参加した佐分利は、1924年より幣原喜重郎外相の下で通商局長、条約局長を務め、「幣原外交」を支えました。特に、北京関税特別会議(1925-26年)では実質的な交渉責任者として、関税自主権の回復を求める中国側の主張に率先して賛成しつつ、中国側から有利な貿易条件の獲得を目指すなど、巧みな外交手腕を発揮しました。
1929年(昭和4年)7月に再び外相の座に就いた幣原は、当時本省を離れ駐英大使館参事官の任にあった腹心の佐分利を駐中国特命全権公使に据えました。当時の日中関係は、済南事件などにより複雑な状況を迎えていましたが、この佐分利の起用に対しては、蒋介石から「大イニ歓迎スル」旨が伝えられるなど、中国側も佐分利の公使着任を高く評価していました。ところが、信任状の提出を終え、一端帰朝中であった佐分利は、帰任を目前に控えた同年11月29日、箱根で謎の自殺を遂げました(他殺という説もあります)。
佐分利が活躍した北京関税会議については、外務省記録「支那関税並治外法権撤廃問題北京会議一件」に関係記録が含まれており、そのうちの主要文書が『日本外交文書』大正15年第二冊下巻にも採録されています。また、駐中国公使着任及びその死をめぐる経緯に関する文書は、外務省記録「各国駐箚帝国大公使任免関係雑纂 中華民国ノ部」にあります。