レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/02/20
- 登録日時
- 2015/03/25 00:30
- 更新日時
- 2015/04/30 10:12
- 管理番号
- 6000020763
- 質問
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未解決
阪急バスには豊中市本町に「市場前」というバス停があるが、この名前はなぜついたのか。ここに市場があったのかどうか知りたい。
- 回答
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『豊中・吹田今昔写真帖』に、かつてこの付近に阪急豊中市場があったが、現在はチェリオビルに建て替わっているとの記述がある。大阪府立図書館所蔵の『阪急バス三十年史』年譜によると、市場前のバス停は昭和10年に認可されているが、名前の由来について書かれた資料は発見できなかった。
- 回答プロセス
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『新修豊中市史 第8巻 社会経済』(豊中市)を調べる。p430「日用品小売市場の発展 豊中地域における小売市場の開設と展開」に、昭和5年に豊中中学校通りの北側に阪急豊中市場が設けられ、駅付近の商店街発展の素地を作ったとの記載あり。昭和11年ごろの阪急豊中市場の写真あり。p681の表「昭和30年代後半における豊中市内の小売市場とその店舗数」に、阪急豊中市場の店舗数28とある。p686「昭和40年代における豊中市内小売市場一覧」が、営業場所・商店数・売り場面積・一日平均入場者数などあり、阪急豊中市場の営業場所は「本町1-193」となっている。なおp491-494「バス交通網の形成と鉄道との競合」には、昭和初期の豊中市域のバス会社等について詳しいが、バス停の詳細については言及なし。p658-668「昭和20年代~30年代前半の小売商業の展開」には、電車による豊中市内から大阪市内への買い物客の流出について記載はあるが、バスについては記載なし。
『新修豊中市史 第2巻 通史2』(豊中市)p422-423「商店街の成立 阪急岡町市場開設」には、昭和初期に生鮮食料品・日用品の購入が村の中の商店から交通至便の場所に数軒の商店を集めた「市場」に変化し、昭和4年に岡町マーケット・阪急岡町市場・豊新区の豊中市場設立、昭和6年に阪急曽根市場建設などとあるが、阪急豊中市場には言及なし。またp408-411「乗合自動車路線の設定」には、豊能郡最初のバスは昭和2年の阪急豊中停留所から私立梅花女学校・府立豊中中学校を結んだバスだとあり、その他昭和初期の豊中市内のバス路線について簡単な説明があるが、「市場前」のバス亭名は載っていない。p755-756「阪急バス路線網の展開」は昭和60年以降を主に扱っており、バス停の配置については記載なし。
『とよなかの史跡巡り』(瀧健三)p45-46「豊中駅付近-大正期」に、明治末から昭和はじめ頃の阪急豊中駅付近の様子の聞き書きがある。1922年に豊中中学校(現在の豊中高校)が開校して、駅から学校までの広い道路(通称十間道路)と数軒の商店がある商店街ができ、1931年に阪急豊中市場がバラック建てで開設されたこと、1927年に大阪北部で初めてのバスが豊中駅と豊中中学の間を走ったことなどの記載がある。
『写真集 明治・大正・昭和 豊中』(国書刊行会)p137「中学校道商店街」に、上記商店街の昭和10年ごろの写真がある。商店は昭和元年ころからできはじめたが、同書が発行された昭和55年当時残っているのは、阪急豊中市場とフミヤ(文具店)くらいであるとの記載あり。p59「これ道?運動場?」には、阪急豊中市場についての記載はないが、豊中駅から府立豊中中学までの通学路として幅員10間(18メートル余り)の道が開かれ、のちに広すぎるということで7間幅としてその売却代金で人道・車道を区分した舗装道路にしたということと、造成中の写真あり。なおp56-63「阪急電車と近代道路」には、昭和初期の豊中駅や豊中付近の道路、このころ走り始めた乗り合いバスなどの写真があるが、バス停についての詳しい記載はない。
『保存版 豊中・吹田今昔写真帖』(郷土出版社)表紙写真に、阪急豊中市場の看板が見える。p10の解説によるとこれは昭和48年の写真で、同書発行時の2007年現在、阪急豊中市場はチェリオビルに建て替わっているとある。p21「豊中駅東銀座通りに面した豊中市場」には、昭和40年代の豊中市場の写真があり、豊中駅前商店街の中心にあって長年にわたって市民に生鮮食料品などを提供してきたとの解説がある。平成19年の写真には、高くそびえるチェリオビルが見えるとの解説があり、チェリオの看板が見て取れる。p54「阪急豊中駅」p60「ボンネットバスが走る産業道路」に昭和初期などの豊中駅付近の写真があるが、バス停については記載なし。
『日本自動車史 都道府県別乗合自動車の誕生 写真・史料集』(三樹書房)p124-127「大阪府最初の乗合自動車を検証する」には、大阪市内の日本橋北詰から住吉を経て堺の大浜公園までのバスの記載はあるが、大阪府北部については記載なし。
『阪急バス50年史』(阪急バス株式会社)には、大正末から昭和初期の同社の事業について詳しく、昭和4年6月に豊中乗合自動車からの阪急豊中~豊中中学間の路線を、昭和9年10月には桜井谷村営バスから阪急豊中~阪急箕面間の路線を引き継いだことなどがp25の表にあり、またp49の図「昭和10年代初期の阪急系バス路線」には阪急豊中から東豊中・阪急箕面までの路線が見て取れる。これは現在では市場前で分岐する路線であるが、この路線のバス停の配置については記載がなかった。
大阪府立図書館から『阪急バス三十年史』(阪急バス株式会社)を借用し、内容を確認する。本文には豊中線のバス停について詳しい記載はなかったが、巻末の年譜p74-75によると、昭和2年に菅野茂八郎氏が豊中停留所前~豊中中学校前間の自動車旅客運輸営業免許を取得した際のバス停はこの2箇所で、同年に梅花女学校前・稲荷前のバス停の認可を得ている。p4-12の年譜をさらに調べると、昭和5年に阪神合同バス株式会社がこの路線を譲渡され、次いで昭和9年には桜井谷村営バスから豊中~箕面間の路線の譲渡を受けて、昭和10年に市場前・熊野田北口・三ツ池などの豊中線のバス停と、柴原口・桜井谷小学校・永楽荘などの箕面線のバス停の認可があったことが判明。ただし、バス停名の由来は記載がなかった。
なお、TNN豊中報道。2の2014年3月19日の記事「阪急バスのバス停「市場前」のネーミングの由来を調査してみた その1:阪急市場編」http://www.toyo-2.jp/archives/36954486.html が、場所の考察等について詳しい。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 阪急豊中市場(ハンキュウトヨナカイチバ)
- バス停(バステイ)
- 阪急バス(ハンキュウバス)
- 歴史(レキシ)
- 豊中市(トヨナカシ)
- 大正(タイショウ)
- 昭和(ショウワ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 『カメラが撮らえた大阪の昭和』(中経出版)p53「昭和11年の阪急豊中駅前」には、通学する女学生を写した阪急豊中駅前の写真あり。p54「昭和11年の市制施行直前の豊中町」には、豊中駅前商店街が写っているが、阪急豊中市場と思われる建物はなかった。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000169829