レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年12月5日
- 登録日時
- 2012/03/30 12:09
- 更新日時
- 2012/08/02 10:36
- 管理番号
- 中央-1-00338
- 質問
-
解決
浦和市の芸術文化の歴史を調べている。関東大震災以降、多くの芸術家(特に画家、彫刻家)が浦和市周辺に移住し、一つの文化ゾーンとなったとのこと。また、別所沼周辺にも多くの芸術家が移り住んだと聞いた。この頃のことについて書かれた資料があれば見たい。
- 回答
-
以下の資料が参考になると思われる。
・『浦和市史 通史編3』 浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1990
p627に、震災後、浦和町に長谷川かな女(俳人)や寺内萬治郎(画家)など文化人や公務・自由業の人たちを中心に人口の流入があり、との記述がある。
・『浦和市是調査書 市制施行20周年記念』 浦和市総務課/編 浦和市役所 1954.8
p20~23「浦和聚落に於ける人口の増加」という節で、大正年間に浦和に人口が急激に集中したことが書いてある。職業別では公務の人が多いとある。芸術家・文化人の分類はされていないので、数は不明。
・『埼玉の画家たち』 水野 隆/著 さきたま出版会 2000.7
p63~130 「第二章 画家の町 浦和」
p65に、「関東大震災によって罹災した東京の画家が、台地で地盤が強固であり、東京(美術のメッカである上野)に近い、閑静な浦和にアトリエを求めて移住したことによるといえるだろう」との一文あり。
・『埼玉文芸風土記』 埼玉文芸家集団 刊行委員会/編集 さきたま出版会 2011.3
p215~220 「現代短歌発祥の地として<旧浦和市①>」
p227 「緑と風の別所沼公園<旧浦和市③>」
・『ヒアシンスハウスに夢を託して 立原道造と神保光太郎』 さいたま文学館/編集 さいたま文学館 2005.10
詩人であり建築家の立原道造が、浦和の別所沼の畔に構想した「ヒアシンスハウス」について紹介。立原道造が別所沼に構想したのは、詩人の神保光太郎が1935(昭和10)年に移り住んできたから、とある。
・『さいたま文学散歩』 さいたま市立教育研究所/編 さいたま市教育委員会 2008.3
p10~11 「別所沼公園と調神社を訪ねてみると」で、別所沼公園や調神社周辺に移り住んだ詩人たちの紹介がある。
- 回答プロセス
-
レファレンス協同データベースで「別所沼」で検索したところ、自館で以前に公開したヒアシンスハウスに関する事例と、県立久喜図書館が公開した関東大震災後が近郊都市化を促す契機となった裏付けが見たいという事例がヒットした。ここで紹介されていた資料を回答に使用した。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 絵画 (720)
- 関東地方 (213)
- 参考資料
- キーワード
-
- 浦和市
- 郷土史
- 別所沼
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000104567