レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年04月13日
- 登録日時
- 2012/07/10 14:32
- 更新日時
- 2012/10/02 16:03
- 管理番号
- 埼熊-2012-093
- 質問
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解決
久喜市の戦国大名米津氏について、以下のことを知りたい。
①久喜市にどのような足跡・業績を残したのか。(寺への寄進など) 普通は寺などに文書が残っているそうだが、米津氏の文書はあまりないと聞いた。
②久喜藩(米津氏)は5代続いたが、その間、江戸幕府内での役や禄(石高)が下がってきている。これには事情があったのか。
③米津氏の前の代官は学校(遷善館 センゼンカン)を造ったり、教育に力を入れていたが、米津氏になって10年くらいで廃校にしてしまった。米津氏はどのような民政・政策をしたのか。また、学校を廃校にしたいきさつを知りたい。
- 回答
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質問①②③について記述のあった、以下の資料を紹介した。
③遷善館については、設立(享和3年(1802))が実現したのが、第7代米津通政が出羽国村山郷に所替となった(寛政10年(1798))の後であることがわかったが、廃校のいきさつについて記述のある資料は見つからなった。
①②③について関連の記述のあった資料
『久喜市史 通史編 上』(久喜市史編さん室編 久喜市 1992)
p423-458「米津氏と久喜藩」の節あり。
①p443-「米津氏と米津寺」の節に、久喜市ではないが、墓所や米津寺に残された史料について記述あり。
②p425- 米津氏の系譜について記述があるが、特に不祥事などについて記述なし。p433-「米津氏の領地」の項に、分知について記述あり。
③p445-「久喜藩の村落支配」の節に、「宝暦14年(1764)3月の「御条目」は、幕府の出した五人組帳の前書と同じようなものであるが、
米津氏が領民の守るべきことを藩内に布達したものである。67か条にわたり生活上のいろいろな規則について述べられている」とあ り、久喜藩独自のものについて詳しく記述あり。教育については、記述なし。
p710-737「遷善館と庶民教育」の章に、遷善館の教育活動がいつごろまで続いていたか、不明である旨の記述あり。遷善館の名前が出てくる最期の資料(文政9(1826)年)とあり。
『久喜のあゆみ』(久喜市史編さん室編 久喜市 1986)
①③p83-84「久喜藩は、幕府が幕領に出した五人組の触書をそのまま農民に御条目として布達し、毎年正月・五月・九月・十一月の四度、農民を集めて読み聞かせました」とあり、その他久喜藩独自の規則についても触れている。天明の飢饉などの時代背景もあり、「農政として見るべき成果をあげることができませんでした。」としている。
②p82「政武は寺社奉行となりましたが途中免職され、出仕をとめられました。その理由について『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』によると「正盛(政武の初名)、文武共に学ばず文盲なり 少し武芸は好むといえり。(中略)中々に寺社奉行職勤めがたき 天性(ウマレツキ)なり」と書かれています。」とあり。
②p83-84「久喜藩の藩政」の節に、所領の分知について記述あり。
①久喜市での足跡・業績について
『久喜市史 資料編 2 近世』 (久喜市史編さん室編 久喜市 1986)
p576「米津氏の藩の経営の様子」の説に、「米津氏が、久喜に陣屋を構えた時期(貞享元年)は、商業経済の発達によって大名の財政が悪化の一途をたどっていた。米津氏も例外ではなく、農民や農間商職人に先納金・御用金を課してこの窮状を乗り切ろうとした。」と記述あり。
p601「御朱印」の項あり、4つの寺の名あり。
p604 明治維新後米津氏が江戸への遠隔・領地の分散等を理由に元の本拠地である武蔵久喜への所替えを願い出たが、取り上げられなかった旨の解説あり。史料は「領地替一件帳」。
②役や禄(石高)が下がってきている事情
『藩史大事典 2 関東編』(木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1989)
p624-628「久喜藩」あり。「政武は、貞享4年(1687)寺社奉行となるが、一時、奉職無状により職を奪われ、遠慮せしめられた。」とあり。
『土芥寇讎記 江戸資料叢書』(金井円校注 人物往来社 1967)
p575-577 「米津出羽守藤原正盛」上記の記述あり。
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
p847「よねきつまさたけ(米津政武)」、「まさのり(政矩)」、「みちまさ(通政)」の記載あり。
兄弟に領地を分けている旨記述あり。業績、教育政策についてなし。
『寛政重修諸家譜 10 新訂』(続群書類従完成会 1984)
p219-221〈政武〉―〈政矩〉―〈政容〉―〈政崇〉―〈通政〉
「政武」の項に、「元禄元年十月二日そのつとめよろしからざる事あるにより、職を奪はれて出仕をとどめられ、三年八月十三日赦免ありといへども、なを拝謁をはばかり、四年四月二十四日ゆるさる。」とあり。
③民政・政策、遷善館について
『埼玉県教育史 2』(埼玉県教育委員会編 埼玉県教育委員会 1969)
p240-272「郷学」の章に、「郷学設立についての久喜郷の要望は、米津侯のころからあって上申されていた」とあり。
『新編埼玉県史 通史編 4 近世』(埼玉県編 埼玉県 1989)
p994「遷善館」の項に、「井上清兵衛の父勝政は農商経済に明るいことが領主米津氏に聞こえ、租税の出入の相談に与り家臣の列に加えられた」とあり。
p998に、「早川代官を失ってからはしだいに衰微していったのではないだろうか。」とあり。
『遷善館 第11回企画展』(久喜市公文書館 1999)
「開催にあたって」に、「久喜における郷学設立の要望は、米津氏の支配の頃よりありましたが、実現せず、代官早川八郎左衛門の着任によってはじめて達成されました。」とあり。
p9に、「遷善館がいつまで存続したかは定かではない」と記述あり。
- 回答プロセス
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《埼玉県立文書館収蔵資料検索システム横断検索》を〈米津〉で検索する。
113件ヒットするが、「○○米津出」を含むものが多い。
米津氏関係では、「目録-015-02 文書番号:鬼久保家52 表題1:宗門人別御改帳 年月日:安永 6. 3. 西暦年:1777 出所:小久喜村 宛所:米津出羽守内 形態:縦 分類1:近世 戸口 宗門人別」などあり。
(http://www.i-repository.net/infolib/meta_pub/OdnCsvDefault.exe 埼玉県立文書館2012/04/13最終確認)
埼玉県に関するDBを調査する。
《埼玉県関係雑誌記事索引》を〈米津〉で検索するが、関連の資料なし。
《埼玉人物索引》を〈米津〉で検索するが、関連の資料なし。
その他調査ずみ資料は以下のとおり
『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1980)
p1026-1027に、久喜市の沿革あり。「米津氏の久喜藩」の項に、所領が散在していたことの記述あり。
『武蔵国郡村誌 12』(埼玉県編 埼玉県立図書館 1954)
p104-小久喜村、p125-久喜本町(p128「甘楽院」に米津氏について記述なし)、p134-野久喜村、p137-古久喜村、p149-下早見村、p157-下清久村に米津氏の所領であった旨の記述があるが、質問に該当する記述なし。
『久喜市史 資料編 3 近世 2』(久喜市史編さん室編 久喜市 1990)
p564-578「米津家関係資料」あり。
p576に、前沢村の臨済宗米津寺(東久留米市幸町4丁目)は田盛の開基とあり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 教育史.事情 (372 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『久喜市史 通史編 上』(久喜市史編さん室編 久喜市 1992)
- 『久喜のあゆみ』(久喜市史編さん室編 久喜市 1986)
- 『久喜市史 資料編 2 近世』 (久喜市史編さん室編 久喜市 1986)
- 『藩史大事典 2 関東編』(木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1989)
- 『土芥寇讎記 江戸資料叢書』(金井円校注 人物往来社 1967)
- 『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
- 『寛政重修諸家譜 10 新訂』(続群書類従完成会 1984)
- 『埼玉県教育史 2』(埼玉県教育委員会編 埼玉県教育委員会 1969)
- 『新編埼玉県史 通史編 4 近世』(埼玉県編 埼玉県 1989)
- 『遷善館 第11回企画展』(久喜市公文書館 1999)
- キーワード
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- 米津(氏)(ヨネキツ(シ))
- 遷善館
- 久喜市-歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000108354