①について
大阪騎兵第四連隊および、輜重兵第四大隊が存在していました。『堺市史』続1巻P1567「大阪騎兵第四連隊二〇〇余人は、昭和七年三月十六日、大阪市真田山から南河内郡金岡村大字長曽根の新兵舎に入り移転式を行った」「輜重兵第四大隊も、昭和八年一月から金岡村の畑地三万坪に建設中であった新兵舎が完成し、九年三月に転営を行った」とあります。なお、金岡村は昭和13年に堺市に編入されました。
②について
『堺市史』続3巻 P35に、 昭和20年10月6日から堺進駐 11月ころから「元の騎兵部隊・輜重兵部隊の兵舎と陸軍病院」が接収されたという趣旨の記述があります。現在は金岡公園・近畿中央胸部疾患センター・近畿管区警察学校・長尾中学校の敷地になっています。(『戦争はあかん!庶民の記録』第4集P12)
また『堺市史』続3巻 P36に「(昭和二二年の夏には占領軍の家族住宅地として浜寺公園が接収され」とあります。接収解除後は海浜公園浜寺として再生しました。泉北臨海工業地帯の埋め立てにおり海水浴場は閉鎖されましたが、浜寺公園は現在も市民に利用されています。
⑦について
金岡キャンプ 昭和32年12月18日(『堺市史』続3巻P451)
浜寺公園 昭和33年2月20日返還(『堺市史』続3巻P447)
③、④、⑤、⑥について
下の資料を確認しましたが、部隊名、人数を確認できるものはみつけることができませんでした。『大林組八十年史』には金岡キャンプについて、「昭和二十一年(一九四六)一月、米軍が関西に駐留を開始すると同時に、この地区の基地建設を担当する第八軍三二三技術部隊は、堺市郊外の旧陸軍兵舎を改装し本部とした。」とありますが、人数については触れられていません。また、浜寺については「昭和二十一年(一九四六)九月、第八軍二十五師団の下士官用家族住宅として、浜寺公園(堺市)五七万平方メートルの区域に浜寺DHが建設された。」との記述がありますが、やはり人数については確認できませんでした。
『大林組八十年史』(堺市立図書館所蔵なし。以下のサイトで電子版を確認できます。)
https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t3cls4.html『占領下の大阪』P180に、1946現在の占領軍の配備が掲載されており、「第二十五師団 大阪 一四000名」とありますが、堺市に何名配備されたのかは確認できませんでした。
回答館(北図書館)
調査済資料
『堺市制百年史』(堺市)、『堺市施行七十年誌』(堺市)、『堺の空襲』(「堺の空襲」編集委員会)、『堺戦災遺跡ウォッチング』(堺市平和と人権資料館)、『堺大空襲をさぐる』(GU企画出版部)、『私達はかたり伝えたい』(堺市人権啓発局)、『堺市民の戦争体験1,3』(堺市教職員組合)『GHQの組織と人事』(厳南堂書店)『占領下の大阪』三輪泰史(松籟社)『占領下の大阪』
(北図書館)