レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年08月03日
- 登録日時
- 2018/03/14 18:22
- 更新日時
- 2019/06/26 11:25
- 管理番号
- 島根郷2016-08-001
- 質問
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解決
広瀬藩の『勅使御馳走日記』という資料はどのようなものですか。
- 回答
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当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。
資料1:山陰地方の古書について解説された新聞連載記事の切り抜き。
p74「勅使御馳走日記」の項目。『勅使御馳走日記』は広瀬藩が嘉永4年(1851)に幕府から勅使(朝廷からの使者)の御馳走役(接待役)を命じられたときの記録。嘉永3年12月に接待役を命じられ、翌4年4月18日に終了するまでの日記(12冊)と、各部署の勤方・作法・しきたりなどを記した資料(34冊)から成っている。また、この記録の中には嘉永以前の事例や、接待中の突発的な事件も一件帳として記録してある、としている。
資料2・3:島根県史編纂のために、大正時代に広瀬藩松平家の資料を書写したもの。
「勅使御馳走一件記・総目録・日記一~七」、「勅使御馳走日記八~十二」「勅使御馳走御改正御定帳」を収録する。当館は原本史料を所蔵していない。
資料4:日記部分の抄訳を載せる。
また、「饗応の概要」で史料内容の解説。勅使は三條大納言と坊城前大納言で、総勢166名(83名の2グループ)。勅使は嘉永4年2月13日に京都を出発し、25日江戸着としていた。接待役の広瀬藩(松平佐渡守)は、嘉永3年12月29日に御馳走人の辞令を受けると、12月31日に高家・畠山長門守へ饗応相手(勅使)とその日程の確認を行っている。勅使の名前がわかったのは翌年2月1日、派遣者の氏名と職名がすべて確認できたのは2月8日、旅行の全日程が判明したのは勅使の出発日・2月13日であった。また、広瀬藩側は1月元日に三高家(畠山、、宮原、武田)方と面会し、職務遂行のために心添えを頼み、さらに3日には御馳走役遂行のための覚書を取り交わす。また同様に前回の御馳走役であった池田内匠頭守や前々回の田村左京大夫にも「不案内につき腹蔵無く申し談じ候様」と頼んでいる。饗応では、実際に直接的に関わったのは高家で、三高家が一切の指図をとっている。また儀礼的な場面では惣高家10家にも挨拶している。京都(朝廷・公家)側の儀礼を司ったのは高家で、武家(幕府)側儀礼に関わるのは「奏者番」であるが、奏者番は勅使饗応では辞令交付以外はほとんど関わっていないようであった、とされている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国地方 (217 8版)
- 参考資料
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【資料1】山陰の古書 88~200. 山陰中央新報社, 1979.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069441634-00 (当館請求記号090.2/146/2※貸出禁止資料) -
【資料2】旧島根県史編纂資料 近世筆写編 182 複写.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069468646-00 (当館請求記号C1/2023/182※貸出禁止資料) -
【資料3】旧島根県史編纂資料 近世筆写編 183 複写.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069468647-00 (当館請求記号C1/2023/183※貸出禁止資料) -
【資料4】宮内悊 著 , 宮内悊. 嘉永4年・勅使御馳走日記の検討. 拓殖大学日本文化研究室, 1993. (日本文化 第13号 抜刷)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069395031-00 (当館請求記号092/1336※貸出禁止資料)
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【資料1】山陰の古書 88~200. 山陰中央新報社, 1979.
- キーワード
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- 勅使御馳走日記
- 広瀬藩
- 島根県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000232504