レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007年10月25日
- 登録日時
- 2007/11/13 17:56
- 更新日時
- 2007/11/13 17:56
- 管理番号
- 福井県図-2007-1025
- 質問
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解決
幕末の大野藩が開設した洋学館(蘭学館)は、現在「大野藩洋学館跡の碑」が建っているところとは異なる場所にあったと聞いたが、どこにあったのか。
- 回答
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大野市城町10-1広瀬病院のあたり(平成大野屋の向って左隣、武家屋敷旧内山家の向って右隣)
- 回答プロセス
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『福井県大百科事典』「洋学館」の項には場所の説明ナシ。
『城下町大野を歩く』p24は、旧・大野高校の校門脇(現:まなびの里「めいりん」敷地)に「洋学館の碑」が建つとあり、p30には「実は洋学館も、石碑の位置にでなく、明倫館のななめ向い、大野屋惣本店の西隣りにあった」とあることから、石碑の位置と実際にあった場所とが異なることは明らか(明倫館は旧・有終西小学校の敷地にあった)。
また『大野市史 第七巻』p318「大野藩洋学館跡」の説明に「本来の洋学館跡は、現在立っている洋学館の碑より東南側道路に位置する」とある。しかし、具体的にどこかの説明はない。
最も手っ取り早いのは、幕末の大野城下の絵図に洋学館の位置が示されていれば、それを手掛かりに現在の地図に照応させることができると考え、絵図を探す。
『若越城下町古図集』には、洋学館の載る地図ナシ。
『城下町古図散歩1金沢・北陸の城下町』
『福井県史 資料編16上絵図・地図』には幕末の文字が読める絵図掲載なし。
『大野市史 第七巻』のp206には「大野城下町絵図(米村岩男氏蔵)」に「明倫館・洋学館・済生館が描かれている」とあるが、文字は読めず。
自館OPAC「洋学館」で検索→『大野藩洋学館跡の碑建設によせて』がヒット、p4に「蘭学所(洋学所)のあった場所は上門町にすぐ横で、今度「大野藩洋学館跡の碑」が建てられた地点から少し東の方に当たるものと推定される」とあり、p5に米村氏蔵の絵図の拡大写真あり。これと住宅地図を照応させると、広瀬病院(大野市城町10-1)近辺が洋学館の跡地であったことが判明。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 8版)
- 参考資料
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- 『城下町大野を歩く』1983年、河原哲郎 (H293/K/2)
- 『大野市史 第七巻』1987年、大野市役所 (H236/O4/1-7)
- 『大野藩洋学館跡の碑建設によせて』1978年、大野ライオンズクラブ (H372/O4/1)
- キーワード
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- 大野藩
- 洋学館
- 蘭学館
- 福井県大野市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000039393