第14回外交記録公開で公開された外務省記録「ラ・ラ(アジア救済連盟)関係雑集」には、日本の「ララ救援物資」受け入れ経緯などを示す史料があります。
「ララ(LARA)」とは、「アジア救済公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia)」の頭文字をとったもので、1946年(昭和21年)に発足したアメリカの宗教団体や社会事業団体など13の民間団体から成る援助組織のことを指します。
終戦直後、生活物資が欠乏し困窮状態にあった日本は、ガリオア援助をはじめさまざまな形で連合国からの援助を受けていました。そうした中、1946年6月ララの代表が厚生省社会局長を訪問し物資援助を申し出たため、日米代表者による援助具体化のための協議が行われることとなりました。そして同年8月にGHQから日本政府に対して出された指令(「LARA救援物資受領及配分に関する件」)により、ララからの援助受け入れに関する日本政府の役割が明確にされ、11月、最初の「ララ救援物資」を載せた「ハワード・スタンベリー号」が横浜に到着しました。救援物資には、食料や衣料、医薬品、靴、石けん、学用品のほか、山羊や乳牛も含まれており、到着した物資は全国に配分されました。
ララからの援助はその後も継続的に行われ、1950年(昭和25年)4月からは、「ララ救援物資」の受領と配分は、従来のGHQの指令にかえて、すべて日本政府とララ代表との契約により取り扱われることとなりました。その結果、日本が主権を回復する1952年(昭和27年)までに400億円に相当する物資が届けられ、1400万人の日本人がララ援助の恩恵に浴したと伝えられています。
こうしたアメリカ民間団体の厚意に対して、占領期間中に衆議院では三度にわたって感謝決議がなされたほか、援助終了後の1952年6月には厚生省などが主催した「ララ感謝大会」が開催されました。また、ララの活動にはカナダの団体や中南米諸国在住の多くの日系人がかかわっており、1952年の調査ではララ救援計画に貢献した日系人団体は36団体にのぼるとされています。