レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年12月21日
- 登録日時
- 2013/12/21 17:00
- 更新日時
- 2013/12/21 17:09
- 管理番号
- 20131221-4
- 質問
-
解決
藤田伝三郎について知りたい。
- 回答
-
藤田伝三郎 【ふじた・でんざぶろう】
http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E7%94%B0%E4%BC%9D%E4%B8%89%E9%83%8E (2013/12/21確認)
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 天保12.5.15(1841.7.3)
没年: 明治45.3.30(1912)
明治期の実業家。号は光徳。幼名は六三郎。長門国萩(萩市)の酒造業者の藤田半衛門・亀夫婦の4男。幕末期に志士らとの交流があり,金品,酒食の提供も行った。明治2(1869)年に大阪に上り,軍靴製造業から兵部省用達業を営み,また土木建設業にも進出した。6年から兄の藤田鹿太郎と久原庄三郎も事業に参加した。9年には5年間の約定で,友人の中野梧一のほか鹿太郎,庄三郎の出資も得て藤田伝三郎商社となった。14年には藤田3兄弟の共同出資会社となり,藤田組と改称し,26年には商法の施行に伴い,合名会社藤田組となった。この間,12年に藤田組贋札事件で一時拘留されている(のち無罪)。13年には愛媛県市ノ川のアンチモニー鉱山に投資して鉱山業に参入し,17年には小坂鉱山の払い下げを受ける。20年には大倉組と共同で内外用達会社,日本土木会社を設立して,用達業,土木業を分離し,藤田組はこののち小坂鉱山を中心とした鉱山業を中心に発展していった。関係した事業には,主なもののみでも大阪硫酸製造会社,大湖汽船会社,大阪紡績会社,阪堺鉄道会社,山陽鉄道会社,湊川改修株式会社などがある。晩年には男爵を授けられた。実業に力を注ぐ以上に株式や債券などへの投機が目立ち,いわば虚業家的実業家であった。また書画骨董などへの嗜好も強く,多くの美術品のコレクションを残している。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
藤田伝三郎 ふじた-でんざぶろう
1841-1912 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)12年5月15日生まれ。久原庄三郎(くはら-しょうざぶろう)の弟。維新後,大阪で軍靴を製造,陸軍省の用達商となり,西南戦争で巨利をえる。明治12年贋札(がんさつ)事件で逮捕されるが無罪となる。14年藤田組をおこし,小坂鉱山などを経営。18年大阪商法会議所会頭。明治45年3月30日死去。72歳。長門(ながと)(山口県)出身。
国史大辞典
藤田伝三郎
ふじたでんざぶろう
一八四一 - 一九一二
明治時代の実業家。幼名六太郎、のち六三郎、伝三郎。天保十二年(一八四一)五月十五日、長門国阿武郡萩南片川町の酒造家藤田半右衛門の四男として生まれる。・・・
幕末期には長州藩の尊皇攘夷運動に加わり、家業をなげうって国事に奔走し、高杉晋作に師事して奇兵隊に参加した。明治維新後、再び実業に志をたてて明治二年(一八六九)に大阪に移り、軍靴の製造に着手し、さらに各地鎮台に被服などの軍用品を納める用達業も兼ねることになった。明治六年に上阪した実兄藤田鹿太郎・久原庄三郎の参画を得て土木事業に進出するなど事業の拡大に努め、他方、井上馨が創立した貿易商社先収会社にも参加し、西南戦争では軍用品と人夫の調達とで大きな利益を得た。この急激な発展から、明治十二年には贋札製造の疑いで一時逮捕され、その政商的活動が世論の批判をあびた。贋札事件解決後、明治十三年には愛媛県市ノ川鉱山の経営に乗り出し、翌十四年には事業の組織を整備するため藤田組を実兄二人とともに設立し、社主頭取に就任した。明治十七年に久原庄三郎名義で秋田県小坂鉱山の払下げを受けた伝三郎は、その後、事業の主力を鉱山業に置き、用達業・土木業などを大倉喜八郎に譲渡した。その間に、関西財界の有力者として政府とも密接な連絡をもつ伝三郎の関係した事業は、内外用達会社・日本土木会社・硫酸製造会社・大阪紡績会社・阪堺鉄道会社・山陽鉄道会社・宇治川電気会社など多数に及び、また、五代友厚らと大阪商法会議所の設立に貢献した。しかし、このような企業者活動も必ずしも順調な発展をとげたわけではなかった。小坂払下げの翌十八年には鉱山の営業資本として毛利家から二十万円の融資を受けたが、その返済が滞り、伝三郎の株取引の失敗や家政取締りの不備もあって二十四年・二十九年と毛利家からの追加融資で経営危機をしのがなければならなかった。小坂鉱山の銀鉱の涸渇、銀価の下落などが主因であったが、明治三十年、小坂鉱山所長であった久原房之助らの努力で黒鉱製煉法が開発され、小坂鉱山が銅山として再生し、ようやく鉱山業を軌道に乗せ、藤田組の経営基盤を固めた。この間、二十九年から三十六年まで伝三郎は毛利家の融資条件に従って経営の実権を整理委員会に委ねざるを得なかった。明治三十八年に伝三郎は鹿太郎長男小太郎、庄三郎長男房之助の持分を回収し、藤田組を伝三郎と実子三人を出資社員とする組織に改め、その後、亜鉛鉱業、台湾の林業経営へも進出した。明治四十四年男爵。四十五年三月三十日死去。七十二歳。・・・
[参考文献]
岩下清周編『藤田翁言行録』、武田晴人「明治前期の藤田組と毛利家融資」(東京大学経済学会『経済学論集』四八ノ三)
日本大百科全書(ニッポニカ)
藤田伝三郎
ふじたでんざぶろう
[1841―1912]
藤田組の創始者。長州藩萩(はぎ)の出身。醸造業を営む家に生まれ、高杉晋作(たかすぎしんさく)の奇兵隊に参加した。明治維新後、陸軍用達業者となり、西南戦争で巨利を得て、1881年(明治14)2人の兄(藤田鹿太郎(しかたろう)、久原庄三郎(くはらしょうざぶろう))とともに藤田組を設立した。この間1879年贋札事件(がんさつじけん)の嫌疑を受け逮捕されたが無罪となった。1884年官営小坂鉱山の払下げを受け、また1889年には岡山県児島湾(こじまわん)の干拓事業の認可を受け、以後この両事業を中心に藤田財閥の形成を図った。また、太湖汽船、大阪紡績、阪堺鉄道(はんかいてつどう)、山陽鉄道などの設立に参加、さらに1885年には大阪商法会議所会頭になるなど、関西財界の重鎮として活躍し、1911年(明治44)には男爵を授けられた。
参考文献:
岩下清周著『藤田翁言行録』(1913・秀英舎)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 藤田伝三郎 ふじた でんざぶろう
- 藤田美術館
- 男爵
- 淀川邸
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000142266