レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年12月09日
- 登録日時
- 2013/12/09 12:51
- 更新日時
- 2013/12/09 13:03
- 管理番号
- 20131209-2
- 質問
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解決
岩倉具視について知りたい。
- 回答
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岩倉具視 【いわくら・ともみ】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96 (2013/12/09確認)
朝日日本歴史人物事典
生年: 文政8.9.15(1825.10.26)
没年: 明治16.7.20(1883)
幕末の公家,明治初年の政治家。堀河康親の2子に生まれ,14歳で岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の庶流。・・・
皇女和宮(静寛院宮)と将軍徳川家茂との婚姻に賛成,それを機に朝廷勢力の幕府内部への扶植を図ろうとした。文久1(1861)年和宮に随従し江戸に赴き帰京。翌年4月島津久光に面会,「三事策」を提示して公武合体運動を支持した。だが尊王攘夷派の志士,廷臣から和宮降嫁を進めたことを非難され,久我建通,千種有文,富小路敬直と共に辞官・落飾の処分を受け,ために僧形となり法名を友山とし洛北岩倉村に居を移した。時に38歳。 慶応1(1865)年春ごろ非蔵人松尾相永の訪問を受けてより,同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し,政界復帰への意欲を深める。翌2年8月,親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放を策謀,同志の大原重徳,中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗した。3年6月,坂本竜馬,中岡慎太郎,次いで大久保利通との交流が始まった。10月,中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す。両藩の協力を得て王政復古を構想,12月8日処分を解除され,翌9日政変を断行。新政府の参与,次いで議定。 翌明治1(1868)年1月三条実美と共に副総裁,次いで共に輔相に任命され新政府の最高位に上げられたが,翌年1月辞任。以来,第一人者の地位を避けた。同年8月,王政復古の功により永世禄5000石を与えられる。翌3年勅使として鹿児島,山口へ赴き,島津久光,毛利敬親に面会,新政府強化のため両藩の協力を要請。4年7月の廃藩置県に伴う官制改革で外務卿。10月右大臣,11月特命全権大使として渡航,米欧各国を歴訪して同6年9月帰国(岩倉遣外使節団)。折からの西郷隆盛の朝鮮派遣(征韓論)を巡る対立に調停を企て成らず,大久保利通と共にこれを否決(明治6年の政変)。翌7年1月赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる。自由民権運動に対抗し,巨大な天皇大権を内容とする欽定憲法を構想。また皇室基盤の強化を図り,同9年4月華族会館長に就任,華族銀行(第十五国立銀行)の設立,華士族授産,皇室財産の確立,京都皇宮保存などに力を尽くす。食道癌により没。太政大臣が贈官され,国葬をもって送られた。<参考文献>『岩倉具視関係文書』,多田好問『岩倉公実記』,大久保利謙『岩倉具視』
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
岩倉具視 いわくら-ともみ
1825-1883 幕末-明治時代の政治家。
文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をとなえて和宮(かずのみや)降嫁をすすめ,尊攘(そんじょう)派によって一時宮中を追われる。薩長(さっちょう)倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲法制定の方針をさだめた。華族の財産保護を目的とした第十五銀行,華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど,華族の地位擁護につとめた。公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。幼名は周丸(かねまる)。号は華竜,対岳。法名は友山。
岩倉具視 日本大百科全書
いわくらともみ
[1825―1883]
幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。・・・
皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。・・・
参考文献:
宮内省編『岩倉公実記』全3巻(1906・岩倉公旧蹟保存会)
大久保利謙著『岩倉具視』(中公新書)
いわくらともみ【岩倉具視】 国史大辞典
一八二五 - 八三
幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって、天保九年(一八三八)岩倉具慶の嗣となり、具視と名のった。・・・
和宮降嫁問題がおこると、公武合体による朝権回復の策として孝明天皇を動かしてそれを推進した。文久元年(一八六一)、和宮に従って江戸に下り、将軍徳川家茂自筆の誓詞を獲得して帰った。二年、島津久光が入京し公武合体運動に乗り出し、江戸に勅使派遣を要請すると、鹿児島藩の意向をいれた対幕府「三事策」をまとめて同藩を支持し、これから鹿児島藩と結びつくようになった。しかし、和宮降嫁推進が尊攘派の糾弾するところとなってこの年八月、同志とともに辞官落飾を命ぜられ、名を友山と改め、洛北岩倉村に幽居、慶応三年(一八六七)まで追放の身となった。この間、政局は文久三年八月十八日の政変、翌元治元年(一八六四)の禁門の変についで長州征伐へと情勢が急転した。岩倉村には非蔵人松尾相永をはじめ香川敬三・井上石見らが出入りして情報を伝えた。持論の王政復古による国内統一を推進するために「叢裡鳴虫」「全国合同策」「済時策」などの政治意見書を起草し、朝廷・鹿児島藩の同志へ贈った。慶応二年、将軍徳川家茂が急死すると徳川慶喜の将軍就任を阻止して一挙に王政復古を実現せしめようとはかり、同志の中御門経之を動かして有志公家の列参建議を行わしめて、朝廷改革・列藩召集を天皇に上奏せしめた。しかし、これが慶喜側の運動で成功おぼつかなしとみると、方針を転じて鹿児島藩に働きかけたがこれも低迷する間に慶喜の将軍宣下、孝明天皇の崩御によって情勢が一転してしまった。慶応三年三月、入洛を許された。長州処分と兵庫開港勅許問題をめぐって慶喜と島津久光が衝突し、これをきっかけに鹿児島藩は萩藩と連合の下に討幕に向かい、高知藩はこれを牽制すべく大政奉還運動を始め、ついに薩長討幕派の圧力でこの年十二月九日、王政復古の政変となった。この際、岩倉は中御門経之・中山忠能・正親町三条(嵯峨)実愛らの王政復古派の公家とともに参画し、大久保利通と実現の手順を謀議、また玉松操を用いて王政復古の新政構想の立案にあたらしめた。王政復古挙行の夜の小御所会議では慶喜擁護論を説く高知藩の山内容堂を押えて慶喜処分を決した。岩倉はこの日、新政府の参与、ついで議定となった。明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦の後、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相となるなど以後終始、新政府の中心人物となった。・・・
[参考文献]
『岩倉具視関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、『岩倉贈太政大臣集』、宮内省編『岩倉公実記』、徳富猪一郎『岩倉具視公』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 岩倉具視 いわくら ともみ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000141667