レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年07月26日
- 登録日時
- 2012/09/24 11:32
- 更新日時
- 2012/11/28 13:43
- 管理番号
- 埼熊-2012-132
- 質問
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解決
織田信長と離縁した濃姫は、その後どうなったか知りたい。史実に基づく資料はあるか。
- 回答
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濃姫が離縁したとする説を裏付ける確かな史料や、信長に嫁した後のことについて書かれた歴史的な史料は、見つからなかった。
紹介した資料は次のとおり
『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
『織田信長総合事典』(岡田正人編著 雄山閣出版 1999)
『濃飛両国通史 上』(岐阜県教育会編纂 三宅米吉校閲 岐阜県教育会 1923)
『国史叢書 23 美濃国諸旧記』(黒川真道編 国史研究会 1915)
『美濃国諸旧記 (みののくにしょきゅうき)』という史料から濃姫について、わかるのは、以下の事柄。
天文4年に生まれる。父は秀龍(ひでたつ)(斎藤道三)、母は小見(おみ)の方。
天文18年2月24日、織田上總介信長に嫁す。帰蝶(きちょう)の方、鷺山(さぎやま)殿などと呼ばれる。
濃姫という名前は美濃からの姫という意味で、そう呼ばれたと言われるが当時の確かな古文書や古記録には見られない。
『織田信長総合事典』では、亡くなった年について諸説を紹介している。
大徳寺総見院(だいとくじそうけんいん)の「泰厳相公縁会名簿」(たいがんしょうこうえめいぼ)に「慶長17年壬子7月9日 信長公御台」とあることから、慶長17年とする説があるが、「信長公御台」が濃姫のことであるという決め手はない。また、信長の後室が永禄6年ごろ御台所となっており、その前に濃姫は死没したとする説もある。
- 回答プロセス
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参考図書を確認する。
『日本女性人名総索引 下』(日本人名情報研究会編著 日本図書センター 2002)p539〈濃姫(織田信長の正室)〉
『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編 [2]』(日外アソシエーツ 1996) p1895〈濃姫〉「天文4(1535)- 別・織田信長室、帰蝶 戦国時代・安土桃山時代の女性。斎藤道三の娘、織田信長の正室。」
『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編 2(1996-2000) 新訂増補 』(日外アソシエーツ 2007)p2140〈濃姫〉上記に同じ。
〈濃姫〉から調べる
『国史大辞典 11』(吉川弘文館 1990)
p357〈濃姫〉「信長と結婚した年を天文17年とする説もある」とあるが、離縁については記述がない。参考文献 『濃飛両国通史 上』
『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
p804〈濃姫〉天文4年(1535)~没年不詳 織田信長の正室 父は美濃の斎藤山城守道三利政 母は小見の方 美濃鷺山城で誕生 名は帰蝶 天文18年2月15歳で輿入れ 美濃からの姫との意で信長が濃姫と呼んだといわれる 信長の後室が永禄6年(1563)ごろ御台所となっていることから、この前に濃姫は死没したと思われるという内容の記述あり。やはり離縁の記述なし。また、永禄6年頃没であれば、天正10年(1582)の本能寺の変にはいない。
参考文献 「濃飛両国通史」「美濃国諸旧記」「濃陽諸士伝記」
『濃飛両国通史 上』(岐阜県教育会編纂 三宅米吉校閲 岐阜県教育会 1923)
p627-628「美濃国諸旧記云、(中略)同年(天文18年)二月二十四日尾張古渡に入輿し、上總介信長の北の方とぞ相なりぬ。道三本室の子は此息女のみなり。」
『国史叢書 23 美濃国諸旧記』(黒川真道編 国史研究会 1915)
「美濃国諸旧記」p41-42「然るに小見の方は、秀龍に嫁して、その後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡も城主織田上總介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ。」
「濃陽諸士伝記」p404(斎藤氏由来)「女子三人、織田信長の室と、金森五郎妻・三木休庵妻なり。
p411・412「信長は、故道三の聟なれば…」
『歴史読本 1992年3月号』(新人物往来社)
p〔1-6〕「濃姫は生きていた!! 大徳寺総見院で墓を発見」
「泰厳相公縁会名簿」に、「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」とあり、濃姫の没年を慶長17年としている。
p54-63「まむしの娘と呼ばれた女 濃姫」(安西篤子著) 弘治2年に信長の元を去ったとしている(小説)。
〈信長〉から調べる
『織田信長総合事典』(岡田正人編著 雄山閣出版 1999)
p155-162「信長正室 斎藤氏」に詳しい。離縁についての記述なし。 なお、本書では生駒氏を側室とし、「信長公御台」の墓石から濃姫の没年を慶長17年7月9日としている。
p40-42「織田信長」「夫人 濃姫(1535?~?)」
『美濃国諸旧記』『武将感状記』『言継卿記』「泰厳相公縁会名簿」「柳本織田家記録」の資料名があがっている。 「嫁いだあと、彼女がどのような生活をしていたのか良質の史料はない」
p168「斎藤道三関係人名事典」 息女 濃姫(?~1613)
『言継卿記 4』(山科言継著 国書刊行会 1915)
p361永禄12年7月27日「信長本妻兄弟女子十六人」の記述がみえる。
〈道三〉から調べる
『斎藤道三』(桑田忠親著 新人物往来社 1973)
p111-113「道三のむすめ濃姫は、三度目の妻小見の方明智氏が天文四(1535)年に産んだといわれる。(中略)ところで、この帰蝶がいつ死んだかという問題だが、信長の正妻として、天正十(1582)年の本能寺の変まで生存していたともいう。(中略)少なくとも次に信長がめとった生駒氏が弘治三(1557)年に信長の長男信忠を産む以前に、病死したのではなかろうかと推測する。」
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『日本女性人名辞典』(日本図書センター 1993)
- 『織田信長総合事典』(岡田正人編著 雄山閣出版 1999)
- 『濃飛両国通史 上』(岐阜県教育会編纂 三宅米吉校閲 岐阜県教育会 1923)
- 『国史叢書 23 美濃国諸旧記』黒川真道編 国史研究会 1915
- キーワード
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- 濃姫(ノウヒメ)
- 織田 信長(オダ ノブナガ)
- 斎藤 道三(サイトウ ドウザン)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000111734