レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/08/22
- 登録日時
- 2009/11/11 02:12
- 更新日時
- 2009/12/02 11:09
- 管理番号
- 埼熊-2009-042
- 質問
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解決
現在残っている石田堤は忍城(オシジョウ:埼玉県行田市)から見ると、東南方向だけのようだ。水攻めにするには全体を囲ったと思うが、どの辺にあったのか。
- 回答
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忍城の北側を利根川が西から東へ流れ、荒川が西側から南側へ流れている。忍城が水没するように、これらの川の上流から引水し、その東側~南側~西側を弧を描いて堤を築いてる。現存するのは忍城南側の一部であるが、清水雪翁の実地調査による「石田堤現存図」(大正2年)に、その当時の図が残っている。
典拠資料は回答プロセスを参照のこと。
- 回答プロセス
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所蔵する忍城関係の資料を調査した。
『行田史譚 行田市史別巻 再販』(行田市譚刊行会 1976)
p69-p79に「忍城水攻め」の項あり。その中の「築堤工事」に詳細な地名あり。
p70「石田堤現存図」(大正2年 清水雪翁絵図)あり。
『埼玉大百科事典 1』(埼玉新聞社 1974)
p109「〈石田堤〉丸墓山を起点として北に作られた堤は長野・小見・白川戸の諸村から利根川の右岸まで続き、起点より南は埼玉・樋上・堤根の三村を通り袋村の北方で西北に折れ、鎌塚・門井・棚田・太井・戸出・平戸の諸村から熊谷付近の荒川左岸で終わっており、その長さは約14キロ、高さ1.8~3.6メートル、幅は基底が10.9メートルであった。」
『忍城ものがたり』(行田市郷土文化会 1971)
p5「〈石田三成の水攻め〉丸墓山を中心に、南は堤根から下忍、鎌塚、棚田、久下の東竹院まで、北は長野(東小学校)の前から長久寺西側、そして白川戸西明寺まで七里(三十キロ)に及ぶ堤を作り」とあり。
『行田市史 上』(行田市 1963)
p583-596「第三節 忍城の水攻め (一)成田氏長」に、堤防に関する記述がいくつかあり。
p586に「その堤は丸墓山を起点とし、南するものは埼玉・樋上・堤根の三村を過ぎ、袋村の北方にて西北に折れ、(中略)利根川の右岸に至った。」と、堤防が築かれた場所について順を追って記述あり。また、「忍城を中心として、遠きは一里、近きも数町に、不整なる弧形を画いた。その長さは約三里半、高さは一間乃至二間、幅は基脚において六間であった。」とあり。
p588-590に、『忍城戦記』の忍城水攻めに関する転載あり。p589に「熊ヶ谷堤の際より築初め吹上・鶴岡(後略)」で始まる堤防の建築過程に関する記述あり。
p591-593に、堤防のうち現存するものについて、『行田史譚』からの転載あり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『行田史譚 行田市史別巻 再販』(行田市譚刊行会 1976)
- 『埼玉大百科事典 1』(埼玉新聞社 1974)
- 『忍城ものがたり』(行田市郷土文化会 1971)
- 『行田市史 上』(行田市 1963)
- キーワード
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- 石田堤
- 忍城
- 埼玉県-行田市-歴史
- 利根川
- 荒川
- 城郭-日本
- 堤防-河川
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000059402